書/王羲之: 作品目録 (2014, Jan. updated)
王羲之の真跡は世界中に1点もない。忠実な古いコピーも実に少ない。ここでは、いろいろな模本の紹介と評価をする。
日本国内所蔵分
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喪乱帖(宮内庁・三之丸尚蔵館)
26.3x58.6cm 横幅の広い掛幅。手紙2通と断片5種が一紙に模写されている。この断片5行は1行づつまったく関係のない断片であり、いかに王羲之の書が大事にされたかがわかる。行書または草書。本来は白紙だっただろうが少し褐色がかった紙。縦に罫線のようなものがみえる。
- 手紙 8行
- 断片 1行
- 断片 1行
- 断片 1行
- 断片 1行
- 断片 1行
- 手紙 4行
実見。孔侍中帖より保存がよく、ガラスこしでも十分鑑賞できる。稟乎とした風格は感動もの。写真図版で魅力を十分伝えているものはない。
玄宗以前たぶん太宗時代の模写。私が実見した王羲之 書で最も優れている。
後水尾天皇(1596-1660)に献上された一巻を三分割した1幅で、皇子であった後西天皇(1637-1685)に譲渡された。次に後西天皇の弟尭恕法親王、その後、法親王がつとめられた門蹟寺院:妙法院に伝来したが、明治13年に皇室に献納された(REf.太田 晶二郎)。近衛家煕(1667-1736)にわたり、そして明治まで近衛家(藤原氏本家摂政関白の家柄)の所蔵。明治10年に明治天皇に献上されたという説もあるようだが信頼性が薄い。
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・孔侍中帖(前田育徳会)
24.8x41.9cm 掛幅。
3種の手紙が一つの紙に模写されている。
- 草書 3行 20字
- 行草書 3行 25字
- 草書 3行 17字
喪乱帖より傷んでいて、表面の劣化がうかがわれる。実見したが、ガラス越しの観察よりも、よい写真図版のほうが細かいところまでよくみえるように思った。
元和2年に野村屋新兵衛(おそらく骨董商か?)が大徳寺の江月宗玩にもちこんで鑑定を頼んだ記録がある。そのとき現在の孔侍中帖の前に更に7行あった。その7行は、法書要録巻十「右軍書記」に記載された「群従彫落」帖の後半であり、チョ遂良「右軍書目」に記載された 巻16に収録された「群従彫落 10行」の後半であると推定される。富山藩の儒者岡田呉陽(明治18,61才没)の所蔵、子息の漢学者 岡田正之(1863-1926)没後、遺族により昭和2年9月、旧加賀藩主 前田侯爵に譲渡(REf.太田 晶二郎)。明治時代 漢学者 岡田正之(1863-1926)が東京上野黒門前の古書店文行堂で発見したという説(ref.須羽水雅、書論3号)は、前田家の文書と矛盾するので誤謬である(2014年訂正)。
7世紀の記録 右軍書目に,第2の部分が記載されている。ただ、行数が8行となっており、確実に同一物かどうかは不明。
- 妹至帖(個人蔵)
掛幅。
25.4x5.2cm 草書 2行 17字
1998, サントリー美術館で実見。
昭和7,8年ごろ、中村富次郎が某大名家伝来の手鏡から発見。田中親美が鑑定。保存が良すぎて、ひょっとしたら宋以後・平安朝の模写かとさえ思わせるところがある。精査した
名古耶明氏
(1999現在、五島美術館)は優れた人であるから、 信用したい。実見といっても1mぐらい離れてみたのだから。
3点ともたぶん正倉院から平安時代に流出したもの。紙の質がすべて同じ白紙であり、縦に無数の筋目が入っている特殊な紙である。これは奈良・平安初期・隋唐時代の高級な書写用の紙としてよく用いられた物である。弘仁12年(820) に155貫文で売られた書法20巻のうち第7巻48行が白紙であり、3点ともそれから切断されたものだろう。
正倉院の王羲之書法と唐宮廷の関係については
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- 袁生帖(日本京都 藤井斉成會有隣館)
27xcm 巻子。
草書 3行 字
紙本、もとは白紙だったのだろうが、灰黒に変わっている。文徴明の小楷跋文(紙本)がついている。真賞斎帖から三希堂法帖まで刻された模本とは別の模本である。
有隣館本の模写は三希堂本より古いかも知れない。少なくとも、1字多い、より古い形を伝えている。古い印がないのは、長い巻物の一部だったからだろう。蔵書印は巻頭と末尾に押すことが多く。中間部を切断すると切断した1紙には、印が全くないことになりやすい。
1992年に観たときにもそうおもったが、台北故宮博物院の快雪時晴帖に似た印象を受ける。前記3点の正倉院伝来??とされるものほど良くはないが、台北故宮博物院の快雪時晴帖とほぼ同クラスだと思っている。更に詳しくは,
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- (傳)藤原行成 模写 王羲之 帖(日本 東京国立博物館)
緑色紙 高24.1cm. 巻子。
草書。手紙と手紙断片が11点。
国宝「秋萩帖」の一部。「秋萩帖」はまず、「小野道風筆の原本とおもわれる草仮名の和歌集」を「誰か」が臨写していて、そのあとに、王羲之 の書をまた、同じ「誰か」が臨写している。
豪華な色紙の料紙(なんと唐代?に作成された准南子の写本の裏)を無造作につかっている。
フリーコピーだし、いかにも日本人的な感じの書なので、それほど重視されていない。しかしながら、、臨写した原本は、前記 喪乱帖のつれの正倉院旧蔵「書法二十巻」か、その類品であろうから、無視できない。ただ、修理が悪かったのか臨写模写のためか、平板でぺたっとした字なので、あまり魅力的とはいえない。
小松茂美 は伏見天皇(1265-1317)が臨写したものではないかと推測している。私もこの推測は蓋然性が高いと思う。伏見天皇は小野道風の長大な行草の巻物をそっくり精密にコピーしたりした書の愛好家であった。このコピーは御物であり、1999/12/14に観た。
台北故宮博物院
遠官帖
24.1x21.3cm。白紙.巻子
草書
十七帖の一部。おそらく唐代に模写された十七帖の長い巻子のうち一部が切断されて保存されたのだろう。
北宋の徽宗皇帝時代の装丁をそっくり切りとって、より大きな台紙に貼り込んだような丁寧な表装をしている。
私見では台北の王羲之模写本の中では最もよい。日本の喪乱帖に次ぐレベルのもの。唐時代の模写に間違いない。数字分すでに剥落しているが、残存部の状態はいいのが嬉しい。
北宋の徽宗皇帝,
金の章宗皇帝の所蔵品。印は殆ど全て真物と思われる。これだけ筋のいいものは珍しい。宮廷に入ったにも関わらず、乾隆帝はどうやら観なかったらしく、印をベタベタ押す乾隆帝の魔の手を免れた。たぶん倉庫の下積みになって紛れてしまったらしい。第二次大戦後に、台湾の故宮博物院の倉庫から再発見された。
- 奉橘帖
3通の手紙の断片をまとめたもの。
24.7x46.8
cm 巻子。行書。4行+3行+2行。黄色っぽい紙。これは蝋を塗って半透明にした紙で原本を模写する方法を使ったもの。
梁の時代の鑑定人の押署、隋時代の題記がついているが、この押署と題記もコピーである。これは、
Lothar Ledderoseの研究
によって明かになった。
従って唐以後の模写であるが、他の模写本と比較して唐代の模写には間違いない。剥落や補筆もあるが精密な模写本で迫力もある。ただし[遠官帖]ほど精密ではない。
北宋の徽宗皇帝の印はかなり疑わしい。北宋の収集家の李[王韋]の印はよさそうだ。
11世紀の米南宮は李[王韋]の家でこれと同ー物とおもわれるものを観ている。
王羲之 のやや若いころの古いスタイルをあらわしているとみなされている。喪乱帖の断片5行のうち、第一行と第3行が少し似たところがある。楼蘭で発掘された晋代の手紙断片にも似たところがある。
- 快雪時晴帖
23x14.8cm行書4行。冊帖。紙はかなり黒くなっているが、もとは白い紙であろう。
11世紀には少なくとも3点模写本があった。晩唐以前の模写本だろうか??
なんでもないようだが、手習いすると気分のいい書である。
乾隆帝が宝愛し、周りにもアルバムの後ろの方にもやたらと感想文を書き、印をむやみに押している。ただし、見開きの左にある、少し大きな楷書の記入は元時代の官僚・書家・画家であった趙子昂(1254-1322)、後ろのページの中字行書の跋は明代後期の王遅登である。他の小さな字は殆ど乾隆帝の書および乾隆帝側近の代筆。冒頭の絵も乾隆帝の作だということになっている。
ラストエンペラーが紫金城を追い出されたとき、布団袋に隠して持ちだそうとしてみつかったという事件もあった。
台北故宮博物院の他の(伝)王羲之書
- 長風帖、
唐の模写と伝えられているが、米(1051-1110)が行った、忠実な模写ではないかと私は考えている。実に生彩がある
- 七月帖都下帖2帖合装巻(台北で実見)
さっぱりした書で、あまりエグさや強さがない。また、忠実な模写ではない。
これはひょっとしたら南宋の高宗(1107-1187)の書かもしれない。上海博物館所蔵の、高宗筆の真草千字文が, 昔は「唐の虞世南」の作品とみなされていたのと同様の事情かもしれない。2つとも「御書」の印と高宗の題記がある。高宗は日本の伏見天皇(1265-1317))に似て古代の名筆を模写するのが好きだったらしい。翰墨志という書に関するエッセイも書いてる。蘭亭続帖などの集帖(木板や石板に彫って、書道全集の形にしたもの。拓本にして鑑賞学習する。)に高宗が模写した王羲之書がたくさん収録されていることからも、そう推測したくなる。
- 大道帖、
孫承沢
は米(1051-1110)のフリーコピーだと判断している。
- 黄絹本蘭亭序
もと、日本の大阪にあった。斉藤董庵の所蔵であった。後台湾の林柏寿(蘭千山館)蔵。最高とはいいかねる。台北故宮の出版物 故宮文物月刊でみたが、故宮所蔵品になったのかどうかは不明。いずれも、北宋以降の臨書にみえる。そうはいっても、それなりに良い。
- 台北故宮でみた 元代(14世紀)に陸継善が模写した蘭亭序
は後述の神龍本と似た原本から忠実に模写したもののようだ。光沢のある紙。折り帖に装丁されている。
欧米収蔵分
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行穣帖(U.S.A.,NJ,Princeton Univ.),
24.5 x 8.9cm. 褐色の紙2行。草書。
唐代の模写本。
墨色が松煙にしてはかなり黒い。他の模本よりかなり新しい気がした。晩唐? 西川寧さんの
意見の通りで、双拘ではなく、
半透明にした黄色い紙を原本の上においてしきうつしたものか?
上海でみた双拘の万歳通天進帖
や 天暦本蘭亭とはかなり違った感じである。紙はベージュ色で、台北の奉橘平安帖
ほど黄色くない。補墨や剥落はあまりめだたなかった。もともと剥落したものを写したのだろうか?
北宋の徽宗皇帝の所蔵品。印は殆ど全て真物と思われる。徽宗皇帝時代の装丁を良く残している。
表紙の刻絲はなくなっていた。表紙を中にいれて新しい表紙をつくったのかもしれない。この改装は1963年以後である。後半「内府書画印」 がある白い紙は光沢のあるもので実に美しい。董其昌の跋も上々、彼は小さな行草書が最も得意なようだ。
白絹に 金泥で書いた徽宗皇帝の字は1字だけかすかに読めた。
17世紀ごろから、有名な遺品。
清朝宮廷旧蔵。
1957年、李鴻章の子息李経邁から画家張大千が香港で購入。1963年ごろには日本にあった。 Elliot Collectionを経て、Princeton 大学美術館へ。
王羲之 早期の風格を現しているもののようだ。
2003年4月、大阪市立美術館の特別展で実見。
- 敦煌蔵経洞由来の晩唐人の臨書断片(Biblioteque Nationale, Paris)
Paul
Pelliotが敦煌から持ってきたものの1部。整理番号PelliotChinois
Touen-Houang4642。土肥義和氏が王羲之臨書であることを1982年ごろ発見。
青い紙。草書4行強(1行めはわずかな断片)。十七帖の一部。
- 敦煌蔵経洞由来の晩唐人の臨書断片(London,BritishMuseum)
Aurel Steinが敦煌から持ってきたものの1部。
British Museumの番号S3743。周篤文氏が文物1980第3期の論文で王羲之の臨書であることを発見・発表した。
草書10行。十七帖の一部。微紅紙。 横方向のすき目がめだつ紙。 1983東京で実見した。額装になっていた。前者よりはうまい臨書。
- 敦煌蔵経洞由来の晩唐人の臨書断片(Hermitage, St. Petersburg??)
最近ロシア所蔵敦煌文献という本で公刊されたそうだが、詳細不明? オルデンブルグの収集か?
中華人民共和国内所蔵分
- 寒切帖(天津芸術博物館)
草書。紙本。h.25.6x
21.5cm。1.9cm間隔の縦の折れ目のような線が罫線のようにみえる。精密な双勾填墨による唐模本。南宋初期に宮廷にあった。かなりよさそう。
ref. 藝苑綴英44期
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初月帖と姨母帖:万歳通天進帖に収録
紙本、高26.6cm, 10点の模写本と宋元明各時代の跋を巻子装にした豪華なもの。
瀋陽の遼寧省博物館には、即天武后の宮廷で模写されたらしい、王羲之2点を含む王羲之一族の書の集成10点が1巻となって収蔵されている。万歳通天進帖と呼ばれている。たいへんよい。太宗皇帝と違って、模写本を宮廷におき、原本を返したのは政治家即天武后の名誉だろう。当時の模写本は21点以上あったらしいが、南宋時代以降は10点になっている。初月帖は迫力があり、好きな人も多い。姨母帖は王羲之の極初期の書風で、楼蘭やアスターナで発掘された晋代の手紙断片に近いので注目され続けている。
また、王羲之以外の王氏一族の書(東晋、劉宋、南斉時代)が8点もある。これらは世界で一番信頼がおける南朝の王羲之以外の書である。他所では文献的な証拠をもった信頼のできる王献之や王慈の書など無い。これを基準にする他はない。
いくらか焼け焦げあとがある。最近、香港で良いカラー印刷本がでた。これでみると日本の喪乱帖や台北の遠官帖に比べれば、やや見劣りする。やや初期の作品ではあるまいか。
2002/12/1-3 上海博物館特別展「晋唐宋元国宝展」で実見。以下はその記録。
白紙、ただし、劣化と火事の影響で黄っぽくなっているところが多く、一見
硬黄紙にみえる。
なんども洗ったせいか墨がそうとう薄くなっている。松煙墨。
冒頭下部の黒いところは、破れてなくなったところに黒い紙で裏打ちされている部分である。
1帖一紙づつ切れている。ただし、それ以外の切断線もある。
模写技術は、台北の奉橘と前後するぐらいか?それより少し落ちる。
喪乱・孔侍中(正倉院流出?)よりずっと劣る。
- 蘭亭序
以下3点は皆、北京故宮博物院の所蔵。
- 張金界奴本(別名「虞世南臨本」別名「八柱第一本」別名「天暦本」)
紙本。双勾填墨 本 (2002/12/1-3上海博物館特別展「晋唐宋元国宝展」で実見)
元の文宗のとき宮廷に献上されたもの。
西川博士は、「かなりよく東晋の原本を反映している」という意見。模写と損傷、さらに補墨のため、生気があまりない。
余清斎帖・秋碧堂帖の拓本になっている原本はこれなのだが、拓本のほうを好む人もいるかもしれない。拓本のほうは石に刻むとき、かなりかっこよく修正されてしまっているからである。
本紙は白い繊維が縦にところどころ輝く白紙で、
北宋から晩唐というところかもしれない。筆画は淡墨でぬったような感じで筆のあとの
感じはないがそれでも立派なのは底本がよほど良いのだろう。筆線のところどころに濃
墨の点が散っているがこれが何なのかはわからない。
張金界奴が献上したときは、前後が紙装だったらしいあとがある。そのあと、元内府で絹の隔水がつけられ印がおされたもののようだ。
- 神龍本(別名「八柱第三本」)
紙本。しきうつし模写本。
「神龍」印を信用すれば、唐の中宗の時代以前の模写本。信用しなければ、明中期以前どこまで古い時代の模写かは確言できない。唐蘭の「明時代の偽作」という説もあったが、どうも信じにくい。
生き生きとして鋭い感じがする。練達の書。ただ東晋の書法に隋唐の模写家の書法が混じりこんでいるようにみえる。熊秉明の[小川本智永千字文]に似ているという意見もあった。宇野雪村氏が実見したときは、「墨の濃淡がはなはだしいことに驚いた」そうだ。
- 八柱第二本はかなり後世のもの(宋以後)らしく、できがよくない。米元章(1051-1110)の臨書だという意見は、現物に親しめる北京の徐邦達によって反駁されている。「いくらなんでも米がこんな低劣な書を書くとは思えない」
ref.
王羲之蘭亭序モ臨前後7種合考察(REF.に詳細)
- 湖南省博物館にある絹本の蘭亭序も結構よいようだ。絹なので、表装のさいに糸が動いて字形や行が歪んだところが散見する。
- 上海博物館の王羲之「上虞帖」はかなり疑わしい。「宋代模本」という意見を角井博氏が上海博物館のスタッフにきいたそうだ。東京国立博物館での講演で
[口頭]で聴いた。太平天国の乱のとき、旧蔵者の娘は袖にこれを隠して脱出したそうだ。
2002/12/1-3上海博物館特別展「晋唐宋元国宝展」で実見したが、あまり面白いものではない。
- 北京故宮の王羲之「行楷臨鐘よう千字文」と「雨後帖」にいたっては言語道断の偽物。前者は集字で造ったのではないだろうか? 天津の「干嘔帖」も評判が悪いようである。
王羲之 周辺の墨跡
- 北京故宮の王[王旬](じゅん)の「伯遠帖」、
紙本。行書4行。手紙。乾隆帝が尊重した「三希」の1つ。香港に流出したあと、周恩来が、後述の北京故宮の王献之「中秋帖」とともに国家予算で買い戻した。これは真跡だそうだ。特に反対する理由もないから、王羲之の書ではないが、伝世の東晋の有名人唯一の真跡ということになる。
これの臨書を偽物にしたてたものが、東京国立博物館の所蔵品にある。何度か実見した。50年以上前の国立博物館ニュースでは乾隆帝が尊重した「三希」の1つとして紹介していたが、勘違いということで決着がついた。 紙を汚して古く見せているところが、わざとらしい。
2002/12/1-2 上海博物館特別展「晋唐宋元国宝展」で鑑賞。
確かに双勾本ではないが、唐模の遠官帖(台北)と似た紙である。
唐の臨書ではなかろうか?
状態よし。墨色よし。
- 上海博物館の王献之「鴨頭丸帖」(絹本墨書)も王羲之周辺の書として優れたものだろうと思う。唐以後の模写だろうが、私が好きな書の一つ。 2002/12/1-3上海博物館特別展「晋唐宋元国宝展」で鑑賞。
余清斎帖に彫るとき、跋の「大令」が「右軍」に修正されてしまっている。
奇妙なことだ。
- 北京故宮の王献之「中秋帖」は乾隆帝が尊重した「三希」の1つとして有名だが、11世紀以降のフリーコピーらしく、尊重する気にはなりません。
- 遼寧省博物館の「曹蛾碑墨跡」は南北朝時代の書跡らしいが、王羲之と直接の関係はない。 2002/12/1-3に上海博物館特別展「晋唐宋元国宝展」で実見したが、あまり面白いものではない。カラー影印と同じで暗い緑絹に謹直に模写されている。唐代の題記もすべて模写であるから、北宋ぐらいのものなのかもしれない。
- 北京故宮の唐人臨模「黄庭経」はそのもの自体は悪くはないのだが、全く唐風の書で王羲之らしいところはない。模写というより文と構成だけ借りて自分流に書いたもののようだ。
碑と拓本
王羲之 には同時代に自分が書いて彫らせた碑はない。ただ、唐代に王羲之 の字を集めて組み合わせてつくった碑はある。有名なところでは、西安碑林の集字聖教序 と同じく西安碑林の集王興福寺残碑。拓本だけ残っているものでは、宋拓集王羲之金剛経もある。集字聖教序が一番よいとされている。ただ、今の石面は痛みきっているので、古くて良い拓本/あるいはその複製をみたほうが良い。例えば、東京の三井文庫にはこの碑の優れた拓本が多く収蔵されている。
また、宋拓の名帖は北京故宮にかなり集中している。澄清堂帖の残本3種がすべてここ、大観帖もあるようだ。草書の手紙をおもに集めて、石に刻んだ「十七帖」は開封博物館にある馮銓本がおそらく一番すぐれているので,
是非見てみたいものだ。上海博物館にある呉寛本十七帖もいいが、ちょっと鈍い感じもする。日本にあるものでは、京都国立博物館の上野理一旧蔵本十七帖。これは破損した字をまずく修理したところがあり、それを除けばそうとういいようだ。台東区書道博物館所蔵の淳化閣帖夾雪本もなかなか素晴らしかった。特に8巻が良い。淳化閣帖では世界で1、2を争う拓本だろう。
石に彫った蘭亭序としては、定武本蘭亭序は宋代から有名ではあり、多数の複製や再版の拓本がある。しかし、ほとんど観るに耐えず、台北故宮博物院にある元・柯九思旧蔵「定武蘭亭真本」と東京国立博物館にある、断片七十字のみが、良いようだ。
近年 滅んだ分
- 遊目帖(広島・安達萬蔵旧蔵)
手紙1通.十七帖の一部。
清朝宮廷旧蔵。
三希堂法帖に彫られた。
広島原爆により消滅。
あまり忠実な模写本ではない。唐時代のフリーコピーをさらに後で模写したものか?
- 二謝帖(清朝宮廷・満州国宮廷旧蔵)
手紙1通
清朝宮廷旧蔵。
三希堂法帖に彫られた。
満州国崩壊により、軍隊に略奪された。1948-49年革命戦争中、略奪の発覚を恐れた所蔵家の家族の女性たちによって焼却された。
とても20世紀の話とは思えない。8世紀の太平公主のころと同じ事件が起きるとは!
写真がないのでよいものかどうか?真相は不明。
所在不明・行方不明の分
- 此事帖(北京・張伯英旧蔵)
手紙断片。
写真図版は戦前から公開されていて有名ではあるのだが,
あまり忠実な模写本ではないようにみえる。張伯英は模写ではなく真跡だといっているから臨写(フリーコピー)本ではないだろうか?
- 王略帖(清朝宮廷・満州国宮廷旧蔵)
手紙1通
清朝宮廷旧蔵。
三希堂法帖に彫られた。
満州国崩壊により、軍隊に略奪された。
「楊仁がい」によれば天津にあるという?
写真がないのでよいものかどうか?真相は不明。
- 神龍蘭亭 別本(中国国内?旧蔵)
1920--40年代出版か?とおもわれる佛記書局から印刷出版されたモロクロ複製本がある。かなり後世(元以降か?)の模写本らしく、八柱第三本のほうが良く古い模写のようだ。
ref. 書論、第3号
- 知問帖(六日帖)(日本・下村正太郎氏旧蔵)
手紙断片。
十七帖の一部。
小さな写真図版は戦前から公開されているのだが,あまり忠実な模写本ではないようにみえる。
跋文もかなりあやしい。
ref.
書論、第3号
- 王献之, 白舎帖(奉天博物館旧蔵)
手紙断片。
王羲之の息子の書?なので、ついでに挙げる。もと張学良のコレクションだったらしい。あまり古い模本ではないかもしれない。淳化閣帖から逆に墨跡をでっちあげた偽物という説もある。
Ref. 河出書房版, 書道全集, 第4巻「三国・東晋」, 1955
Ref.
- 名古耶明, 新発見の王羲之, 「妹至帖」, 墨美251, 昭和50
- 張彦遠, 法書要録, 人民美術出版社, 1984
- 三希堂法帖釈文
- 表立雲, 袁生帖の発掘, [墨スペシャル20王羲之を学ぶ」
- Lothar Ledderose 米とその芸術 日本語訳1987, PrincetonUniversity Press,1979
- 芸術新聞社:「墨スペシャル 王羲之」, 1990
- 西林昭一:「書の文化史 上」, 1991
- 中田勇次郎 編集 書道芸術第1巻:「王羲之王献之」 中央公論社
- 小松茂美 「秋萩帖」原本の出現 東京国立博物館紀要 第20号, 1984
- 孫承沢 庚子消夏記 北京 龍威閣
- 昭和蘭亭記念会,「 昭和蘭亭記念展図録」, 東京, 1973
- 西川寧,「新出の行穣帖」, 書品142号, 東京, 1963
- 翰墨軒, 王羲之 萬歳通天進帖, 香港, 1997
- 藝苑綴英44期(1993)天津芸術博物館特輯
- 徐邦達, 王羲之蘭亭序モ臨前後七種合考察, 書譜, 第8巻第3期, 1982
- 楊仁がい, 国寶[水冗]浮録, 上海人民美術出版社. 1986
- 書論研究会 「書論」 第3号, 特集王羲之と蘭亭序, 1973
- 故宮法書第1輯 晋王羲之墨跡 民国51年。
- 故宮法書選第輯 唐人臨模黄庭経 文物出版社。
- 大英博物館 敦煌楼蘭古文書展, 1983
- 太田 晶二郎,王羲之「孔時中帖」について--特に其の前に接してゐた帖,東京大学史料編纂所報 通号 3 1968ページ 12〜22,1968
99年12月】