正倉院の王羲之帖模本

張彦遠の法書要録に収録された[衣者]遂良の目録 と正倉院の国家珍宝帳に記載されている 唐模本の目録を比較すると, 模本の長さ、表装形式がよく似ている。
正倉院の国家珍宝帳の全文は意外と読むことが困難である。普通の正倉院図録にはのっていない。そこで、ここに王羲之模本の部分のみ 東瀛珠光 1から紹介することにする
書法二十巻

これをみてまず気づくことは、番号が跳んでいるということである。 第一〜第十はいいとして、いきなり五十一に跳び、五十六の次の五十七が無く五十八、五十九、六十になる。二十巻と一見きりのいい数だが、20巻に編集したものではない。
名の形式が、十巻までは同じ「羲之草書巻第X..」で、第五十一巻から急に変わる 「羲之書巻第X..」まあこれは、草書だけ集めたものと行書が混じっているものとの違いなのかもしれない。
では、当時奈良宮廷には60巻以上の模写本があり、それのうち20巻選んだのだろうか? そう解釈してもいいのだが、もう一つの解釈として、この名称は、唐で巻物の表紙に書いてあったものをそのまま書いているだけではないか?とも思う。
次に装丁が 紫檀軸 紺綾[衣票] 綺帯と19巻分は揃っている。これは、 大きなセットで、同じ装丁にしたものから抜いたものだと推定できる。 一巻一巻、別々のところから集めたものではない。

もう一つ、気がつくことは意外に一巻が短いことだ。 千字文と扇書は特殊なのでのぞくと、一番短いので21行しかないし、長いものでも54行である。
喪乱帖(宮内庁)17行、孔侍中帖(前田育徳会)9行は、ずいぶんちょっとしか残っていないと思っていたが、どうもそうではない。妹至帖2行も含めて、皆白紙だから、白紙の 「羲之草書巻第七46行」の一部だとすると合計で28行、第7巻に限っては半分以上も残っていることになる。

正倉院には王羲之「楽毅論」は無かった。

行数を吟味していると、光明皇后の「楽毅論」が手本にした原本は、この書法二十巻のなかには入っていないということもわかる。楽毅論は楷書(唐時代では、真書または隷書と呼ぶ)であり、款の1行を除いても43行あるのだ。当然草書でも行書でもないので、入っているとすると「羲之書巻第X..」のなかでなければならない。ところが37行が一番長いのだから、当然入っていない。じゃ、宋代以降中国で伝っている「楽毅論」と行立てまで同じ光明皇后の「楽毅論」は何を手本にしたのか?
正倉院にいれていない「楽毅論」が日本にあったと考えねばならない。 醍醐天皇に殉葬されたもの、藤原行成が宜陽殿から借りだしたものなどが、記録に残っている。

法書要録に収録されている太宗宮廷の目録によると、 御物・喪乱帖が7帖を集めたものであるように、 唐代の模本は複数の帖を1紙に模写して、30行ー100行 くらいの巻子本にしたらしい。
更に番号のつけかたまで似ている。正倉院の目録の番号が太宗宮廷の番号 と対応していないかと行数を比較したが、残念ながら一致しなかった。
ただ、この2つの目録に十七帖らしいものがない。 そして、十七帖の長さは2つの目録のどの模本より、破格に長い。 このことから十七帖の成立は玄宗より後になるのではと思う。 十七帖の末尾にある[衣者]遂良と解无畏の題記は後添えであろう。

五十一巻の眞草千字文で王羲之 とはいくらなんでもひどい。王羲之 の死後作られた千字文を王羲之 が書くはずはない。洗練された文章を作った奈良宮廷の学者がこんな無茶な名前をつけるとは思えない。これは王羲之の字を一字一字模写して千字文に組み合わせたものという意味だろう。現在、京都にある小川本千字文をこれと同一のものとみることは、内藤湖南以来いわれてきているが多いに可能性はあると思う。

扇書は扇ではなくて団扇


法書要録にも扇書というのがあるが、これはいわゆる扇ではなくて、丸や四角の団扇に書いたものである。折り畳む扇は、北宋時代に日本から入ったもので、 法書要録の時代、奈良時代にはなかった。

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