文献 の第1章の翻訳。金西崖(1890-1979)の 遺稿を王世襄が整理したもの。 註、補足、小見出しは訳者}}
竹は遠く太古から、道具、家具、武器として利用されてきた。 文字を発明すると竹を削って竹簡をつくり、綴あわせて書物とした。 「礼記 玉藻」に
竹の笏を士大夫は使う。とある。装飾を施したものだったに違いない。 晋の王献之は斑竹の筆筒に’裏鐘’と名をつけた。斉の高帝は僧に竹根如意を賜った。 ゆ信には「山杯棒竹根」の句がある。これらは、一般の竹の道具とは違う高級品 だったのだろう。 竹刻の伝世品で最古のものは 日本正倉院(北倉)の留青尺八 であろうか?。 表皮部分に更に毛彫りをほどこして、人物花鳥の模様をあらわしている。 宋の郭若虚「図画見聞誌」(第5巻)には唐の王倚家蔵の筆管が記載されている。
従軍行の詩意を刻し毛髪亭台遠水、精絶ならざるはなし。 景ごとに、従軍行の両句を刻する。ーーその刻は日にあててようやくわかった。毛彫りに違いない。
元,陶宗儀「輟耕録」は宗 成の鳥かご を記載している。
四面が皆、彫刻で竹片に 宮殿山水人物花木鳥獣をことごとく刻し細密な透かし彫りをおこなった。この器は奇 をてらったもので尊ぶにはあたらないが、透かし彫りであることはわかる。以上、唐と 宋で別の技法をみることができた。ただし、伝世の器物や竹人の名は極少なく、文献も 希で、まだ芸術としては自立していなかったらしい。
宋以後、大石窟、大摩崖、大寺院の巨像制作が衰え、机上の小彫刻が盛行するように なる。玉彫の山岳、象牙器、犀角杯、倣漢銅獣、堆朱、徳化の磁器像、寿山石の人物像 、更に名硯、名墨、いずれも唐以前にはなかったものである。 彫刻の体制、規模、題材、技法、ともに元明で一変した。竹刻が芸術の一部門になっ たのは明代中葉であり、この時代の風気を受けている。
訳者 補記 現在のところ、最古の竹刻は江蘇省出土の新石器時代の槍の穂先?BC3000-4000らし い ref. Wang and Wengref.Wang。湖北省戦国墓出土の漆塗りの竹盒 ref.葉・譚,Iref. Tsam & Yee.vol.1 , 馬王堆1号墓 彩漆竹勺の柄 龍の浮き彫り(西漢 文帝期) も古い。
竹の工芸品は、編んだカーペット、扇、枕などが、戦国時代の楚墓から出土しているが、竹刻とは謂えない。
練川先生称絶能、昆刀善刻琅 干青、仙翁対奕、\ldots\人物山水図であることがわかる。 松鄰の作品は希である。かってみたものに、北京で観た山水臂擱、南京博物院の高 浮き彫り松鶴筆筒(Wang & Weng,中国美術全集 )がある。松鄰は創始者であり、質朴であるこ とを特色 とする。芸術の草創期の特色である。その後だんだん華麗となるのである。三朱は各々 前人を凌いでいる。松鄰の作を制度渾朴と金堅斎は評したが当たっているといえよう。
朱小松、字は清甫、小篆と行草に長じ、絵の造詣は書より深かった。長巻小幅、各々 趣がある。金堅斎曰く
山川雲樹、迂曲盤折、尽く化に属す。刻竹の古の仙人像・仏像は、目利きは呉道子 の絵と比較した。清初の人が小松の文具を評して
藤は舞、樹肌がみえる。仙人や鬼は出目がはっきりとし、容貌に優劣がある。 蝦や蛙 は腹がおおきい。奇怪さで比較するなら、気力にあふれ、細かい 動物まで、みな飛び、鳴いているようである。彫刻対象が生き生きしていることがわかる。 毛祥隣が小松を評して
父の業を良くし、考察を巡らせ、技巧の向上に努力した. 故にその技はいよいよ精妙である。出藍の誉れであろう。竹刻挫語には’竹彫の山’を 著録している。
古松は老幹と蛇のような枝で、傍らに太湖石がある。石頭は饅頭をつみあげたような 皴を用いる。刀法は簡古で味がある。一老人が石頭に座し、右手は巻子、左手には 扇、詩を吟じているかのようである。松の根元に「小松」2字の篆書款がある。この作品は礼堂が友人の処で見たものである。高浮き彫りでは、図版に挙げた <帰去来辞>筆筒 ref. Wang and Weng が更に精絶である 。万歴3年の作品。
訳者 注
朱小松の最も確実な 作品は万暦初年の朱氏墓から出土した <劉阮天台図>香筒ref. 上海博物館展 で ある。1993/7 実見 透かし彫り、浮き彫り、浅彫りを併用している。衣紋の刻法は <帰去来辞>筆筒に似て更に精巧である。}
朱三松は小松の次子。陸扶照<南村随筆>
遠山澹石、叢竹枯木を画作した。また、ロバを描くことを好んだ。彫刻は 軽々しくは始めず、興がのってはじめて行い、一器を造るのに数カ月をかけた。作品には崇禎年間のサインがある。竹刻挫語にも記載した「朱三松 辟邪紐竹根印 崇 禎庚辰三松制」が証拠である。卒年は清代にはいるだろう。伝世の作品では、 清宮旧蔵の屏風仕女筆筒: 下絵は, 陳老蓮下絵の西廂記からとっている。版本の挿し絵を高浮き彫りに 変え、各種の刻法を併用して、主客虚実を表現している。画境に新意を出し、 下絵にとらわれず、精巧熟練の技法を表している。
訳者 注:1993/11 台北故宮で鑑賞 刻法は朱小松の劉阮天台図香筒に 酷似するref.Jenys 。台北故宮にはもう1点彫竹仕女筆筒 、さらに蓮型洗がある(きわめて軽い。たった50g (ref. 文房聚英 。 , ref. 故宮珍玩 。 )
清 趙斫
朱三松が透かし彫りを始めた。朱氏が亡くなってまだ百年たたないが、人々は争って 朱氏の作品をまねして生業としている。ついに嘉定の特産物となった。思うに、嘉定の竹刻は朱三松に至って器形は単純となり、技法は益々精巧となった。 名声が天下に轟き、竹刻を学ぶものも多くなる。 竹人録に載っている者に、秦一爵 (注: ref.葉・譚,I に美女読書図筆筒) 、沈漢川、禹川昆仲
訳者注:沈大生のこと。 沈大生の浮き彫り彫竹仕女筆筒は2点上海博物館にある が朱小松 劉阮天台図香筒、朱三松 西廂記 筆筒(台北故宮)に比べると、かなり平面的である。また、動物丸彫りもあるが、 玩具っぽい。 天啓3年の記年がある(1995現在、Bathのアジア美術館蔵) 故宮文物月刊 。)
沈漢川の子の沈兼、皆、朱三松を学んで、一家を成した。<南村随筆>曰く、
嘉定の竹刻は正徳、嘉靖間の高士、朱松鄰が創始し、その子、朱小松が継ぎ、孫、 朱三松に至って最高となった。<対山書屋墨余録>
朱小松は朱松鄰の名を凌ぎ、朱三松は朱小松を凌いだ、と謂われているが、実のとこ ろ、松鄰の名声は晩年に得たものであり、朱小松が最盛期をつくり、 朱三松は継承しただけだ。皆、朱一門の発展を述べている。
訳注: 近代まで伝世された作品は、 無銘であるか、無銘作に有名人の偽款をいれたものが多い。工芸は無銘が原則であり、 士大夫階級と交際のあった宜興陶人、竹人、墨匠などのみ 名が残っている。有名人の真作は確かにTOP-ENDであるがそれ以外に時代の風格をよく 表す流派作も多い。宋の陶磁器にサインがないからといって価値が低いだろうか。 鑑賞のさいに、このことに留意したほうが良いと思う。}
李耀 字 文甫。
<竹个叢抄>
扇骨を彫るのが得意で、花卉を透かし彫りにした。また、象牙印を 文三橋のために刻した。文三橋の卒年は万暦元年76才だから、嘉靖年間の人であろう。
濮澄(濮陽が姓であったが、濮で通していた)、字、仲謙。万暦10年生
清初に健在であった。
(注:清 の阮葵生<茶余客話>に”銭謙益と同年”とあるのによる また、銭謙益の有文集の自注に「君と我ともに壬午」 。 )。
犀角、玉、彫漆、竹刻、すべて濮の手を経ると愛すべきものとなる。一本のかんざし、 一つの器でも至宝となる。<陶庵夢憶>
濮仲謙は外見は無能のようにみえるが、その技は神工を奪う。一寸ほどの竹に1刀を 加えただけで何両という値になる。宋茘裳「竹罌草堂歌」
白門の濮生も、大璞不断、開新径、なまずひげを刻して龍蛇の如し、輪困蟠屈、 ふくろう形、匠心奇を創り、古を超える。ここで、「大璞不断,輪困蟠屈」は細かい彫琢ではなかったことを示している。ただし、 刀法によって自然な趣をみせている。これは一般の竹刻とは異なる。故に、 「匠心奇を創る」。その作品の風格は嘉定の朱氏と違っている。
濮派は浅薄で味なし。朱に遠く及ばない。これは地元ひいきであり、定論とはいえない。
濮仲謙の真跡はあまり伝世していない
多くは彫刻が繁細で主題も俗であり、偽刻か
旧器に偽款を入れたものである
訳者補記
北京故宮にある、竹根筆筒は明代の 作品だろうとは思うが、繁細にすぎて、文献 から想像する濮仲謙の作とは懸隔があるWang & Weng,中国美術全集 }。
王世襄は絶対に濮仲謙の真作と言い切れる作品は 1点もみたことがない。といっている ref. Wang and Weng
新資料故宮文物月刊144 からの抄訳
1970ごろ河北省の明墓から2本の扇が 出土した。現在天津芸術博物館蔵。扇骨には、梅花・蘭花・水仙の装飾がある。 一本に両面ある遍骨の一面には7言の詩句、一面には「壬戌」と「仲謙」款がある。 また、2本とも、「可登」の印がある。「可登」は字で、「仲謙」は号なのかもしれな い。この扇骨はまだ実見していないので真跡かどうかはわからないが、重要な資料で ある。
張希黄の活躍時期は全くわからない。紀年作もないし、清人の筆記にもでてこない。 その号も出身地もわからない。私が所蔵していた筆筒には、希黄のサインのしたに、 張宗略印が刻してあった。宗略が名で、字が希黄なのであろう。また、江陰の人 であるという伝えもあるが、根拠を示しているわけでもない。 張希黄の作品は全て留青である
(訳者注:留青と記載されていず、浅浮き彫りと称さ れているものもある。これは、留青の黄色が抜けてしまったものである。 カロチン系の黄色だから 油分に溶け易い。油で磨いたりすると色がなくなってしまう。近代のものでも 色が抜けた留青は多い。保存には油(手の油も)をつけないように注意すべきである。
(注:Percival David旧蔵Boston美術館が1977購入Wang & Weng,,ref.Jenys }を 最優作とする。
清初から乾隆までを清代前期とする。150年間の大家は呉之、封錫禄、周 ,潘西鳳の4人である。
呉之、字魯珍、号東海道人、三松以後、嘉定第一の名人で、刻竹の年款には、康煕 前半の年号が多い
(訳注:三松以後ブランクがあるのは嘉定が清軍による虐殺の場 になったせいではないか?と考えている。}。金堅斎は
伝世の彫竹山水花卉筆筒、行草臂擱は秀媚遒勁、識者は珍品としている。’と評している。黄世祚”練水画徴録”には’
魯珍は初め南翔にいた。天津に移る。市中では遺作は殆ど伝世していない。 内府に貢入した筆筒があり、サインは” 差渓呉魯珍’となっている竹刻挫語には、相馬図筆筒と揚柳仕女筆筒しかあげていない。これは、江淅地域だけの見聞だろう。 私の観たところでは、対奕図筆筒(訳注:訳注 この筆筒はおそらく後述する対奕図筆筒と同一物だろう。北京故宮博物院蔵。ただサインは呉之となっている。}。
(訳注:北京故宮博物院蔵}(黄揚木彫、ただ手法は竹刻と同じ)Wang & Weng
(訳注:東晋の謝安の故事。肥水の戦いで戦勝報告の早馬が来ても悠然と碁を打っていた 光景である。王世襄指摘1981}、采梅図、 滌馬図、張仙像 及賛(康煕27年)、牧牛図Wang & Weng 、戯蟾図(康煕28年乙巳)などの筆筒 、そして人物行草臂擱があり、十数器が伝世している
訳者補記
日本におけ る伝世品では、川崎個人蔵の采芝図筆筒(高浮き彫り・透かし彫り併用乙亥(1695))1993実見、 を最精とする。同様の伝世品に北京故宮にある聴松図人物臂擱がある。(1996/1,2長崎 で実見)、台北故宮にある牧馬図筆筒 (1993/11,1994/11,1995 /10実見)、も有名である。 牧馬図筆筒は異常に保存が良く最近作ったかのように みえるほどだ。これから、色で時代を判別することは無理だとわかる。実際、1993 に金西崖(1880-1979)の見事に琥珀色になった文字刻筆筒を観たことがある。また、 台北故宮,朱三松の屏風仕女筆筒の内部は非常にきれいである。1994/11観察。}。
300余年を経ていることを考えると。
少ないとはいえない。魯珍が精力的な芸術家であったことを示している。
丸彫りの外に魯珍は浮き彫りを得意とした。浮き彫りの手法に2種類があった。1つは
深く刻する高浮き彫りで、朱氏の法を学んだもの、深浅が何層にもなっており、
丸彫りに近く、深刻したところは透かし彫りを併用している。
対奕図筆筒がその例である。もうひとつは浅浮き彫りで、先人を超えて新意をだしてい
る。そのため批評家も浅浮き彫りに言及することが多い。
陸扶照は「別刻一種、精細得心」と謂い。金堅斎は「所刻薄地、最為工絶」、
礼堂は龍門石刻の浅彫りに似た優品を’薄地陽文’と名付けている。
魯珍の浅浮き彫りの凹凸は朱氏のそれより浅いが、刀を使うこと余裕しゃくしゃくで、
水に浮いた油滴のような極僅かの起伏を用いた。その例は筆筒の牛馬に観ることができる。
また、画才があったので、同じ面のなかでも遠近感がある。魯珍が常に用いた手法があ
る。
器の一部分のみを精緻に刻し、他はそのままにするか、輪郭線をとるだけにした。この手法は明代にはない。主題と従属的なものを分け、虚と実を明かにしている。潤い
のある竹の肌の上の彫心鏤骨の刻、この対照に生彩がある。
対奕図筆筒を例外として、他の筆筒は皆この技法による。全面が深刻した景物で一杯の
明代の筆筒とは著しく違っている。呉魯珍はこの技法によって名声を得た。
明末清初は硯や墨が最も精巧であった時代である。その模様や浮き彫りは魯珍の竹刻に
通じるところがある。相互の関係があるのだろう。呉魯珍の後継者は、その婿 朱文友
(文右)
がいる。号は均斎、また王之羽、字が謂韶、号が逸民という人もいる。王の舅の徐
氏が呉魯珍の隣人だったので、王はよく遊びにいっていた。そこで技術を学び、一時はトップの地位を得た。
嘉定の名工で呉魯珍と同時代かやや後の人に封錫禄がいる。封氏の一門は皆竹刻を生業とした。
錫爵(字 晋侯)封錫禄(字 義侯)錫璋(字 漢侯)兄弟3人で鼎足を称された。
なかでも封錫禄が最も傑出している。
康煕42年癸未 封錫禄と錫璋はいっしょに北京へ行き、養心殿で芸をもって仕えた。
一族の人、封毓秀がその記録を詩に詠んでいる。
義侯は丸彫りが得意で朱氏の技法を継承して新意をだしている。毓秀の詩にいう、
朱松鄰や朱小松たちは明代のトップであったが、後から出た封氏はいよいよ精巧である。実証もあり、必ずしも身びいきというわけではない。 毓秀は封錫禄の丸彫りについて、
仕女を彫り、神鬼を透かし彫りにする、金堅斎は更に高く評価している。
我が嘉定の竹根人物は、封氏がでて盛んになり、義侯においてはじめて精巧となった。 梵僧を写した仏像の奇蹤異状、詭怪離奇、見るものは毛が逆立つようである。 採薬の仙翁、散華の天女は霞を踏まえ超然として出坐する想あり。世人は彩色を競っているのに、義侯は彩色を加えず、その衣紋はひょうびょう、ゆうゆうとして、刀法は風の 如く、まったく神技である。金堅斎は嘉定の人であり清代中葉に生まれた。明代の丸彫りを観る機会も多かったに違いない。義侯の作品が前人を超えていなければ金堅斎がこれほど傾倒するだろうか? 但し封氏の作品は多くは伝世していない。
義侯の子孫には始幽、始岐(訳注:雍正乾隆間宮廷にいた。雍正2年には「竹匠」だが、雍正8年及び乾隆初期には「牙匠」と登録されており、象牙彫刻をおこなったらしい 。)などがいたが、皆弟子の施天章には及ばなかった。施天章は 字 煥文、雍正間に如意館に供奉し、鴻盧寺序班という官職を得た
訳注:乾隆初年には冷遇された。そのせいか乾隆五 年六月一三日逃亡したが、 捕縛され、瓮山で馬飼いの労働をさせられた。後、忠勇公 傳恒(米南宮:蜀素帖の 旧蔵者)の運動によって原職復帰した。故郷に帰葬された 。乾隆39年に婿の王謙の家で死んでいる。年73。 王鳴韶の嘉定三芸人伝には、まっさきに施天章を置く。
封氏の作品は古色古香をもって主となす。 施天章の作品は古色古香、渾厚蒼深、夏商周の青銅器のようである。つまり施天章は封氏の技を継承して、しかも自ら一家の面目がある。
周は封義侯と同じ土地の出だが、少しだけ年少である。字は芝厳、号は、雪樵、
峰山人、晩年の号は髯痴、康煕24年に生まれ、乾隆38年卒年89。
銭大斫は<周山人伝>を著した。
芝厳の画には独創的なところがある。山水人物を倣古して皆精妙であり、なかでも画竹を好んだ。嘉定の竹人は三朱、沈漢川、呉之の後、芝厳が革新を行った。山水樹石の刻竹に刀を筆の如く用い、稿本を用いず、自ら山水を象った。その皴法濃淡凹凸は、 生動渾成、画家も及ばぬものを刀で寫した。王鳴韶の嘉定三芸人伝。
山水人物花卉を描き,皆優れている芝厳の山水刻では、人物に目や耳が無く、家には窓が無く、樹には細点が無く、橋には欄干が無い。人の意想外に出て、嘉定の諸大家の後に別に一幟を立てている。 詩人に例えれば、杜甫にあたるだろう。200余年のうち、第一に推す人もいれば、軽蔑する人もいる。 <竹人録>、<墨香居画識><墨林今話>に掲載されている。蒋宝齢<墨林今話>
(訳注:墨竹図の例 ref. Wang and Weng ,乾隆丙子年 山水軸 )。
さらに、刻竹が得意で陰影の付け方線の描法、尽く法則にあっている。 竹筒、竹根もまた、彫りの浅深・濃淡・描線 は法則の内にあり、 変化は法則の外にある。 筆でできないことを、刀で行うことがある。
若いころ王石谷に師事して、黄鶴山樵を倣して最も工みであった。 若年で刻竹家の名声を得た。 絵画の腕を上げたあとは乱作しなかった。
画は南宗画を正統とするが刻竹は北宗画を尊ぶ。また銭大斫[練川雑詠」
花鳥は徐煕、山水は馬遠、これが朱小松の伝統であると知る人は少ない。清になっての呉魯珍の山水人物は北宗画風である。採梅図筆筒はその例である。 周芝厳になって、前法を改革し、南宗画法を刻竹に表すようになった。当時四王の画派 が画壇を風彌していたので、芝厳が新意を出し、一幟をたてると”200余年で第一の人”と誉れを得ても不思議ではない。芝厳の山水は陰刻を主とする。 その輪郭皴擦は殆ど一刀で刻出していて、広狭浅深長短斜整、思いのまま。木や枝は鈍刀一刀をもって造り、屈げた鉄のようであり、刀痕の切れ味がよく、ふらふらとした線などない。 刀と筆、工具は違うが南宗の皴法であるとはいえ、斧へき皴の名残がある。「筆でで きないことを、刀で行うことがある。」とはこれであり、「南北宗を一体とする」と いうのもこれである。
芝厳の弟 周笠、字牧山 もまた画名があった。 王鳴韶はその刻竹を芝厳に並ぶものとしている。「生気があり、神気を内に秘め、、」 ただ牧山は芝厳よりも16才も若く、しかも10年早く死んだ。だから遺作は芝厳より少ない。
訳者補説:
広倉硯録に出ている浅彫り雲墅松泉図筆筒はあまりにも有名で周芝厳の作品のイメージ がこれに固定されてしまったきらいがある。原件は上海博物館蔵である。 これはまず名品のようであるが、同様の浅彫り山水松石図の作品で感動できるものを 殆どみたことがない。これ自体も朱小松の劉阮天台図香筒や呉魯珍の牧馬図筆筒のよう な超一流という感が薄い。 周芝厳の作品を浅彫りの南宗山水竹石で代表させるのが見当違いなのではないか? 芝厳の本領は別のところ、例えば陷地深刻にあるのではないか?と疑っている。
台北故宮で1995/10/15に谿雲山閣筆筒 をみた。陰刻で谿雲山閣・乾隆壬午秋日・倣古芝岩とサインがある。雲墅松泉図筆筒によく似ている。 1990年に新収したもの。
竹刻家には、周牧山の他にも墨山、など○山とい う号の人が散見する。ref. 葉・譚, II しかも遺作が互いに似ていて下絵が同じような、白菜の陷地深刻である。周氏の一族係累の作品ではないか。
潘西鳳,字桐岡、号老桐、淅江省新昌の人。揚州に仮寓した。<鄭板橋詩鈔>には
潘西鳳へ送った詩がある。その一部「蕭々落々自千古、先生信是人中仙」
つまり潘西鳳は学者であったが、大都市で困窮し、竹刻で生活を立てていたことがわかる。潘西鳳の刻竹は当時有名であった。揚州に長くいて鄭板橋も「濮仲謙以後第一の人」と誉めたので、批評家は金陵派と名を付けた。作品には濮仲謙の刀法に似たところがある。
例にあげた臂擱は、内側へ凹んだ変形竹を縦に切って創っている。虫喰いや斑痕がまるで自然のものであるかのようだ。
銘文は長くないが、味があり老荘の文に似ている。
張陶庵曰く
濮仲謙の作品は刀で彫ったようにはみえないところが奇である。自然にできたもののようだ。潘西鳳のこの作はこの評言にふさわしい。濮仲謙は浅刻が上手だった。潘西鳳もそうである。 かって見た湘妃竹扇骨では鄭板橋が斑点を利用して梅花数点をつくり、痩せた枝でつないでいた。 鄭板橋の題と潘西鳳の款があった。
訳注:潘西鳳の秋声賦筆筒は
写真さえ見たことがないが、大阪市立美術館蔵の新羅山人の秋声賦図軸をおもわせる図様である。潘西鳳の他の作品では、
留青菊華竹石図筆筒(雍正4年) ,新潟 ,
丸彫り小鼎 ref. Wang and Weng ,竹根印10点以上,
いかにも揚州八怪の同時代者らしい。
(訳注: ref. Wang and Weng に白菜筆筒}。
顧[王玉]、字 宗玉、山水人物、毫髪の如き細かさであった
(訳注: ref. Wang and Weng に丸彫り老人臥筏像}。 陸扶照曰く
筆筒を刻するのに、数カ月。ただ、透かし彫りを多用しすぎてこわれやすく、あまり感心できない。しかし、その技術には及び難いものがある。
(訳注: に丸彫り陶淵明採菊像 に彫竹松紋盒}、字 用吉、折枝花を彫ることに妙を得た。花は重々しく、葉は何重にも重なっている。
金堅斎は、「薄いことは軽雲のようだ。」と評している。
甥の
渭、字 得、号 雲樵山人。は行書楷書を刻する名人であった
。
張廷濟曰く
嘉定竹器の刻字、乾隆年間の雲樵山人、第一その拓を清儀閣古器物文 冊十に収録している 。 書蹟秀麗、嘉慶道光の刻字の、整飾を尊ぶ気風を既にみることができる。 以上清前期の名家は潘西鳳を除きすべて嘉定の人である。一地會粋、練水はまことに竹刻の郷である。 呉魯珍の浅浮き彫り、 朱氏や沈氏を超えた封、施の丸彫り、 周芝巖の南宗山水と陥地深刻、 潘西鳳が濮仲謙の刀法の神髄を得、浅浮き彫り、深刻にもすぐれたこと。 皆、当時に冠絶して後世に範をたれている。その他の竹人も、伝統を守り技術を磨いて、 一寓をつけ加えている。故にこの150年間は竹刻技法が発展した時期だと言ってよい 。
訳者補記
渭活動年代について。
遺作の干支は、
である。
- 庚子 白菜筆筒Wang & Weng, 、
- 丙午 唐太宗評刻字筆筒 、
- 乙卯夏六月 蘭亭序筆筒ref. 葉・譚, II 、
- 丙辰 前赤壁賦筆筒(文字刻) 、新潟
では4.を嘉慶元年に比定している。張廷濟が「乾隆年間の雲樵山人、 第一」といっているのだから、妥当なところだろう。康煕時代の竹刻の発展は帝の好尚も寄与していると思う。古代の聖王をした った康煕帝は、竹・瓢箪などの器を好んだ。この時期、瓢箪や竹の器が宮廷で制作され たり、当時皇子であった乾隆帝に瓢箪の筆筒を賜ったりしたのは偶然ではないだろう。}
(訳注:上海に東方朔像丸彫りがある ,LondonのMoss蔵八仙蔵(8体一組) }、字 遜初。彼のも龍眠十八尊者をみると、金堅斎の評、
太い眉、深目、四角い顎、豊頬、猛きこと縛虎豢龍、静かなること 拈花執箒のごとく、変化を尽くし、同じ者が無い荘綬綸, 字は印若 仕女刻を得意とした。周 方、仇英の絵を刻すると称しているが、皆粉本によっている。 代表作は四美人図、揚妃春睡図、紅葉題詩図香筒。 金堅斎は2人と同時代である。
蔡時敏は封氏の伝統を承けて丸彫を行い、荘綬綸は香筒を刻したので透彫を行った。乾嘉の間には、丸彫りや、透かし彫りがまだ流行していたことがわかる。 その後だんだん廃れて陰刻ばかりになってしまう。
新意があり、三寸の肖像を刻す。朱氏以来の伝統を承け、新生面を出す。また、張崟の「張宏裕,竹刻小像に題する」
刻竹に新生面を開く。古人の未だかって到らないところ。竹刻小肖像は張宏裕に始まるといわれているが、実は彼以前からあった。ただし、盛んになったのは、 清代中葉以後である。 方求@号 治庵、字 矩平、淅江省黄岩の人。
刀刻に精、刻竹が最も絶。山水、人物、小肖像、皆、自ら下絵を描いた<前塵夢影録>
方治庵は六舟達受のために盧山行脚図を臂擱に刻した。 そして、更に良いのは 阮元の80歳肖像である。礼堂も六舟肖像をみている
(訳注:礼堂の友人朱氏の所蔵。背面に顧西梅の画「小緑天庵図」と徐問渠の題賛、表の小像の下に、湯貞愍の銘 }。 張と方の2家はともに肖像を刻したが、張は立体彫刻、方は浮き彫りを使った
(訳注:Wang & Weng, に載っている方治庵の作品は全て臂擱で、上に題、下に故事人物が線刻してある。 には扇骨の例がある。}。
全国に名高い任熊の版画<列仙酒牌><剣侠伝>を 蔡が刻した。筆法精細、平凡な工人のできることではない。また、花卉山水人物を刻した扇骨を百本も創った。すべて任熊の下絵で容荘の刻である
(訳注: ref.葉・譚,I に任熊下絵の臂擱が掲載(咸豊)。ただし、図版が不鮮明。}。
陰刻を主としていた。むかし拓本が流布していたが、影印がまだないのは
惜しい。
もちろん容荘は種々の刀法をふるった。
<竹刻挫語>には「渭長絵漁翁臂擱」をあげている。これは留青である。
袁馨、字 椒孫、海寧の人。
<廣印人伝>
淅中で有名な竹人は椒孫と容荘だけだ。礼堂は袁馨の臂擱を観て、
任熊の洛神の下絵、彫法工細絶倫、霧鬢風髪、眉目端麗、衣摺に呉帯当風の妙がある。清代晩期には竹人が自画自刻することが少なくなり、名人の蔡容荘、袁椒孫でも下絵は自作ではなく画家にたよっていた。
蝿の髭のように細く分行布白は整然とし、神技のようだ。同郷の浦煕の書を刻していることが多い。もちろん浦煕は細楷の名人であった。 韓潮は字 蛟門、帰安の人、扇骨に小行楷を刻すること数百字。字を書いてから刻するのではない。 石印に側款を刻する技法でやっている。あまり書に意を用いているわけではなく字画が離れて いるところもある。ただ一気阿成の迫力がある。成熟した雅味とは違う。 刻字は乾嘉の整飾な一派から、だんだん細密な技法へ走った。細密な技法はまた 一つの発展ではある。ただ揚州の于嘯仙にいたっては、金陵派から出た毛彫りと自称 し、扇骨にけし粒のような字で十数行を刻する
(訳注:印人として有名。西冷印社発行の印譜がある。}。刀痕は深く、かつ丸く、別に一格を備えた。一般の深刻とは違う。 周之礼、号 致和、又、号 子和。江蘇省、長州の人。金石文字や器形を模刻した。 残欠錆飾も尽く写し、拓本と比べても遜色がない。 乾隆嘉慶のころ、金石学が起こった。款識を集め、器形を拓し、縮模して出版した。その流行はついに竹刻に及ぶ。 工芸が時代を離れ得ないことの証拠の一つである。
(訳注:これは、鑑賞に値する芸術品がないということで、 丸彫り、透かし彫り自体は現代まで作り続けられている。 丸彫りだからといって清中期以前だとみなしてはいけない。 }。 このため器物の形式も変化した。動植物の形象、机上器物などの立体彫刻は作らず、竹根高浮き彫り筆筒も希となり、 表面を刻するだけの筆筒、臂擱、扇骨が主となった。 工芸の消長はこれの如し。刀刻で書画の筆墨を表現することは技法の発展ではあるが、 竹刻自体を単一化し、貧弱にしてしまった。事物の利害得失表裏一体計るべからざる例である。 この110余年間は彫刻で書画を再現する時代であった。 なぜ竹刻だけが、旧態依然なのか?竹刻には竹刻用の書画がある。髪は白くなった かわりに、いささか広く観たところでは、書画を追ったのが清末の平板化の原因であ った。彫刻は彫刻、絵画は絵画である。竹刻は書画の奴隷であってはいけない。 今すでに手もふるえ、眼もくらい。運刀もおぼつかないが、諸々の技法を広く採り腐敗した旧習を打ち壊し、わが国の竹刻芸術を再び光彩陸離たるものにしたい。
文字づらから留青と混同しやすい技法に、貼黄(竹黄、翻黄、反黄、文竹)がある。これは、竹の表皮を剥して、 竹の薄い板を木の地(黄揚木など)にはりつけたものである。一種の合板の技法で、 大きな箱や、家具も 制作できる。浅彫を施したり、木画を応用することもある。乾隆ごろから多く制作された。台北故宮には多くの作例がある。北京故宮には、貼黄製の1セットの文房具がある。 もっとも、貼り付けた竹板に留青を施したものもある。台北故宮で留青山水を貼り付 けた鎮紙をみた\footnote{1993,1994,1995実見乾隆後期か?}。 ただ、地まで竹であるものとは、一応区別される。より工芸的な技法であるref. JENYS 。