ヤン=フェルメールの「絵画芸術」の伝世について (2003/11/17)(2022/04/19 スウィーテン男爵の記述を訂正)

最近、修理や貸出で、ウィーンでさえなかなか鑑賞できなかったらしい Kunsthistoriche Musuemのヤン=フェルメールの「絵画芸術」が、 4月中旬より東京で展覧される。なお、タイトルは「アトリエ」「絵画のアレゴリー」「アトリエのフェルメール」など色々と呼ばれている。その伝世について、あまり知られていない伝聞を含めてメモしてみたい。
なにしろ、 「そのリアリズムに関わらず、なにか秘教的で憑かれたような感じがある。 たぶん、その精密描写それ自身が幻想的で超現実的な世界に鑑賞者を導くのかもしれない」とA.M de Chiezaに言わせた作品である。

National GalleryのサイトとA.M de Chiezaの総カタログ(Tout L'Oeuvre peint de Vermeer de Delft, 1968, Paris)より

120cmx100cm、カンバス、油彩、1665年頃。コンデションはあまり良くなく、左のカーテンが特に悪いようだ。
古い時代の所在ははっきりしないが、美術愛好家Gerard van Swieten男爵(1700-1772)のもとにあった可能性が高い。息子のゴットフリート・ファン・スウィーテン男爵は女帝マリア=テレジアの帝室図書館長官であった。ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンなど作曲者のパトロンとして知られる。 (訳者:ひょっとすると、マリア=テレジアの娘マリー=アントワネットもこの絵を観た可能性もある?? また、) 18世紀の末にも、後の代のSwieten男爵のもとにあった。ブラッセル在住のオーストリア大使である。彼はパリ、ベルリンへも赴任している。
1813年にウィーンのJohan Rudolf Czernin(1575-1845)が50オーストリアグルデンで購入している。当時は Pieter de Hoochの作品と考えられていた。その後、アドルフ=ヒトラー総統が手を出すまでチェルニン家に留まっている。 1845年以前から、チェルニン家はウイーンの宮殿に画廊を設け、公衆に公開していた。一種の私設美術館だったのだろう。従って、「絵画芸術」も「チェルニンのフェルメール」として知られていたらしい。
チェルニン家の一人はモーツアルトに作曲を依頼したこともあるようだ。
フェルメールのサインは、トレ=ビュルガーの1860年の発見による。

ArtNews  1984、DEC. p55-76, Andrew Decker, "A legacy of FAME"より

「大戦後すぐにオーストリア政府に返還された絵画のなかに、もとチェルニン家所蔵の、フェルメールの「アトリエの画家」があった。現在は「絵画のアレゴリー」と呼ばれている。我々がフェルメールを返還したらすぐ、チェルニン家が請求してきた。裁判の結果、ウィーン美術史美術館が所蔵することになった。」(当時の連合軍の美術担当、フェザン氏)
このフェルメールは、故Jaromir Czernin-Morzin と彼の兄、故Eugen Czernin伯爵のものであった。ウイーン在住の伯爵の息子、Rudolf Czernin伯爵によれば、伯爵が5分の2、Czernin-Morzinが5分の3の権利があった。 (訳者 注釈、この変則的な所有は、この絵画が高価なものであったかららしい。1932年に先代の伯爵が逝去したとき、その絵画コレクションは全部で125万シリングとみつもられたが、フェルメール1点で100万シリング弱であった。残りの25万シリングのなかには、ティティアーノの「ドーチェ」(National Gallery, Washington D.C.)、デューラーの「聖職者の肖像」(1968年の時点で、ウィーンのギャラリー=グラーフ=チェルニンにある)などの 作品さえ含まれていたのに。なお、伯爵が1/5だったという説もある。ref, National Gallery, Washington.D.Cのサイト)
チェルニン家は、Ottokar Czernin伯爵の子孫である。彼は1916ー1918間オーストリア=ハンガリー帝国の外相であり、第一次大戦からオーストリア=ハンガリー帝国を撤退させようとしたプレスト=リトウスク条約の当事者である。
ヒトラーはフェルメールを1940年に165万帝国マルク(66万ドル)で買った。戦後、Czernin-Morzinは強制買い上げであると主張した。しかし、Rudolf Czernin伯爵は「彼は強制されて売ったわけではないのです。全く違います」と言っている。 Rudolf Czernin伯爵によると、絵が共同所有になっていたので、2人が同意しなければ売ることはできなかった。Czernin-Mortinは1939年に絵をヒトラーに売ろうと言ってきた。「父は長い間抵抗していました。しかし、ヒトラーの秘書von Doenburg男爵が父を訪ねて来て、『どうか、あの絵を御譲りいただけませんか?』と言ったのです。私は14歳でした。ヒトラーの秘書はわが家に三日間いました。男爵は大変人好きのいい、完璧な紳士でした。最後に、『あなたが売らなくてもヒトラーは、どんな方法をとっても絵を手にいれますよ。あなたは絵をあきらめざるを得ないようになるでしょう。』と告げました。」伯爵は同意した。 (訳注 ヒトラーの前にナチスの幹部ヘルマン=ゲーリングの代理人として、ハンブルグのタバコ業者がアクセスしてきたことがあるらしい。これは、ヒトラーが介入して、やめさせたらしい。ゲーリングの美術品収集は、メーヘレン作のフェルメールにだまされた逸話で特に有名である。)
von Doernburgがチェルニン家にきた少し前に、ヒトラーはベルリンの帝国財務省と相談している。David Roxan とKen Wanstallの「ヨーロッパの略奪」(邦訳あり)によれば、 ヒトラーはチェルニン家の固定資産税について調べさせたようだ。もし脱税があれば、ヒトラーはフェルメールをオークションにかけることができただろう。ヒトラーが チェルニン家の財政状態を調べたのが、Czernin-Mortinが売ることに同意した時の前か後かははっきりしないが、どちらにしても、彼はヒットラーの査察を知らなかった。 フェルメールはヒトラーが計画していたリンツの美術館の中心になる予定だった。リンツ美術館の1943年のカタログ「民族の芸術」の表紙になっている。Charles de JaegerのLinz Fileによれば、1945年に別のカタログに記載されている。カタログの匿名の筆者によれば、ヒトラーは、600万ドルでアメリカのコレクターに売られようとしたのを防いだということになっている。
戦後、米軍は、アルトアウスゼーの岩塩鉱山からフェルメールをみつけた。そこにはヒトラー美術館のために収集された多くの絵画があった。「最後の所有者ではなく、政府へ返還する」という米軍の方針に従って、オーストリア政府へ返還した。この時、Czernin-Mortinは訴訟を起こした。 「父と私は裁判については何もしませんでした。」「戦後 Jeromirが父のところに来て『これをオーストリア政府からとりもどそうじゃないか』と言って協力を請うたとき、父は『しかしJeromir、それじゃ嘘つきじゃないか。協力したくないね。君は強制されたわけじゃないんだから。裁判全部が嘘をもとにしているんだ。』父は裁判にまきこまれなかったのですが、それは、父だけがJeromirが強制 されたわけではないことを知っていたし、裁判所で嘘を証言することはできなかったからです。でも父自身は強制されたのですが、、」(Rudolf Czernin 伯爵談)
チェルニン家の資産はチェコスロバキアに主にあったので戦後資産を失ってしまったそうだ。Jeromirの裁判は、「アメリカの画商をスポンサーにしていたようですね。画商は、裁判に勝ったら絵を買ってオーストリアから持ち出す予定だったようですね。でもJeromirは3度失敗しました。」Rudolf Czernin 伯爵はその画商の名は知らなかった。
「民事法廷での裁判は1946年と1948年に敗訴しました。....cut....結局、1952年、最高裁までいって、Czerninは絵を失いました。」結審は1953年5月だった。(Czernin-Mortinの弁護士Helmut Denck博士 談) (訳注:結局、オーストリアの最高裁で、絵の国家保有が確定した。ここで「強制だったかどうか」が問題になるのも、ヒトラーの買い上げが強制的なものだあったかどうかが、返還の訴訟に重要な証拠となったからだろう。)


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