トリノの時祷書

  Turin 1  トリノの時祷書は、ファンアイク兄弟の初期の作品が混じっていると推定され、発表されて以来、ずいぶんと議論されてきた。発表されてあまり年月がたたない1904年にトリノの図書館の火事で焼失、古く分かれた別の一部分がミラノで発見されるという劇的な事件が話題を呼んだ。
多くの図版を Web Gallery of Art(英文)の該当PAGE のサイトで観ることができる。

現在トリノ市立博物館Museo Civita に残っているこの本の由来は複雑だ。もとベリー公ジャンが制作させた絵が未完成の羊皮紙写本:ノートルダムの時祷書があった。司書で財務官のRobinet D'Estampの何かと交換した。この写本がRobinet D'Estampのもとで二冊に分割され、一方は、ロスチャイルドのコレクションになり、ドイツに没収され、今はBiblioteque Nationale, Parisにはいって今も残っている。これは典型的な一五世紀スタイルの絵である(写本A)。もう一冊は、絵が追加され完成されたのち、更に分割されたらしく、その一冊がトリノ王室図書館にあった。これは世紀末に発見され、Durrieu伯爵によってモノクロ複製が発表されている(1902)。Hulin de Looも焼失前に研究している。この挿し絵がファンアイク風であるというので大きな反響があった。ところが1904年にトリノで火災があり、この写本は焼失してしまった(写本B)。その後、1911年ごろにミラノのTrivulziana家の収集からもう一冊が発見された。これにもファンアイク風の絵があった。現在トリノ市立博物館に所蔵されている。(写本C)。写本Cにはファクシミリ版が近年出版され,日本でも売られたようだ。なんと150万という高価さで、一部の図書館にしかないだろう。写本Bと写本Cは、トリノ時祷書と呼ばれ、挿し絵の画風も類似しているので、なおさら混乱しやすい。焼失したはずの写本がなぜトリノに今もあるのか?ということになるのである。ここで使った写本A,B,Cという名前は、ここだけで便宜上名付けただけで一般的なものではない。  もとの写本はA,B,C +失われた頁に分割されていることになる。そのうち現存するのはAとCのみ。ややこしいのは、挿し絵が完成される前にベリー公の手を離れたため、Aの挿し絵とB、Cの挿し絵には半世紀以上の差があるようにみえることである。挿し絵以外の文字や枠装飾は共通しているようにみえるので、文字と装飾枠はすでに完成していて、絵だけが空白になっていたのではないか?と考えられる。

写本Bの発見以来、この写本が美術史家に注目されてきた理由は、B,Cにあるファンエイク風の挿し絵である。B,C写本の絵自体数人の手になると分類されており、そのうちに、ヤン=ファンアイクの作品、ヒューベルト=ファンアイクの作品があるのではないかと熱く議論されてきた。また、ファンアイクより後の時代の模倣者によるという意見、より古い作品であるという意見など混乱している。 モノクロ図版が残っているとはいえB写本の焼失は全く惜しいことだった。 B,C写本の挿し絵を追加制作させた所有者は、Lassagne によると、リエージュの僧正、ババリアのヨハネス である可能性が高いらしい。これは写本に描かれている紋章の分析をもとにしている。初期のヤン=ファンアイクがリエージュにいたのではないかという議論は聖エリザベツと聖母子と寄進者」という絵画(Frick Collection, New York)からも推測されていたので、ヤンが一部制作していたと推論している。

ここは、トリノの市立図書館にあるC写本から、2つのイメージを提示する。上図は33x22cmである。小さいようだが、ヤンの「泉の聖母」(アントワープ王立美術館)なんて19cm であり、葉書大ぐらいの大きさである。この絵は複雑な透視法を使い空間を構成した作品で、Hand Gの画家と分類されている。 また、下図は ヤンファンアイク一派の作品とされる磔刑図とそっくりで、HAND Hの画家と分類されている。16x13cm。イメージをクリックすると拡大図版を観ることができる。