故宮博物院で、 倪雲林の容膝斎図軸を観たが、傑作で、他の伝承作品はほとんど失格だということが解った。
故宮博物院で、劉芳如 女士の 担当で、
倪サン(雲林)の容膝斎図軸を観た(2001/10/22, 14:00-15:30)。
約束通り、故宮の事務室のほうへ14:00にいく、あちこちいる制服の守衛に手紙のコピーをみせて、わざと案内してもらう。服装はダークカラーのジャケット、スラックスとBoymans Museumで買ったタイでドレスアップしていた。美術関係の職業人ではないし、有名人でもないので、つまらぬトラブルを避けるためでもある。
オフィスは前一度、工芸の専門と、玄関ロビーで意見交換ミーティングをしたことがあるので、一応知っていた。
ロビーで待っていると、卵のような細い顔の上品な美貌の女性が、ベージュの上着を着てでてきた。劉芳如さんだ。活発な人が多い台湾の女性には珍しい楚々としたタイプだ。英語で話す。ロビーで座って、持参の正倉院資料(金泥山水箱蓋、金銀描童子舞踏スオウ箱、キョウケチ屏風1)、およびブラッセルで再発見した文叔陽題記原石の大版写真を、提供する。結構忙しいのか、あまり資料に興味がないのか、すぐ案内してくれる。
幅のひろい鉄の扉をあけて、地下へ下る。地下も壁はクリーム色で上と同じ。
廊下が伸びていて、その左右に部屋がある。右側奥の部屋に案内された。扉をあけたら、すでに容膝斎図 が広げてあった。長い机または机を並べた上に厚い灰色のフェルトを敷き、そのうえに軸を広げてある。同じ準備をした机が手前にも1つあり、この2列の机で部屋がほぼいっぱいである。
入り口近くには、青い制服をきた中年の監視の人(男性)が2人いた。
マスクが用意されていたが、「持参のマスクでもこちらでもいい」とのこと、持参のほうが慣れているので、東京から持参した「簡易マスク」を使う。
劉さんは、忙しいので相手はできないが、「1時間はいていい。」といったので
「十分だ」と答えた。実は、もし、万一ありきたりの絵だったら、1時間もみるのは苦痛・苦行でしかないので、ちょっと不安だった。
部屋の入り口側には、80x60x60ぐらいの黒いコンテナが床においてあって、「画90」、「104」という番号がついている。おそらく、中には名画が山積みされている。コンテナごと運んできて、その1つを出すという方式なのだろう。2人もいたのは、どうもこれを運んできたせいらしい。一人はやがて外にでてしまい。一人だけが残って監視をしている。
もっとも、私が極端に慎重にみていることがあきらかになったらしく、ねむそうにしていた。壁際には低い小さな書棚があり、乾隆帝コレクションの目録「石キョウ寶笈」の影印本、辞典、なぜかオークションカタログなどが並んでいた。
机に広げてあり横からみるほかないので、これはちょっと不便である。もともと巻子を広げてみるためのセッティングで、掛軸向きではない。おそらく掛軸は、頻繁に展示されるので、特別にみせてほしいという要求は少ないのだろう。巻子の場合は全部ひろげない場合も多いので、要求が多いのではないか?とおもったりする。また、壁にかけると自重で落ちたり、掛けるときの作法が悪いと折れたりすることもあるということも、こういう方法をとる原因かもしれない。
使っていない机のフェルトの上にノート・資料、絵の図版の全体コピー、部分コピー、鉛筆をおいて、観るときは何も持たず、記録すべきことをみつけたら、ノートのところまで戻って記録するという、最も安全な方法をとった。ボールペン、サインペンはもとより、シャープペンシルさえもってこなかった。従って、絵の右側と、ノートの場所をなんども往復することになる。ほとんどのメモはコピーの上、裏に直接書いた。
結論をいうと、やはり、容膝斎図 は、現存の倪雲林画の最高のものである。 これを基準作にすると、私の知る(伝)倪雲林 画のほとんどは失格してしまい、 Cleveland Museumの「喬柯竹石図」という小品が、ようやく次点という程度でひっかかるくらいである。まさに同じときに、故宮博物院の本館2Fで展示してある「江亭山色」図ですら、甚だ見劣りがする。オフィスをでたあと、再び観て愕然としたものだ。容膝斎図をみるまでは、まあまあのものだと思っていたのだが、。ただし、初期作品と考えられる様式の違った2点の絵は、まだ再考に値するだろう。
容膝斎図は一見したところでは平凡な絵である。しかし、長時間みていても飽きないのは、内容があり技術もすぐれているからであろうし、なんとなく作者の精神を感じるような瞬間さえある。はっと気がついたら50分過ぎていた。
後で、本館の他の元の絵をみると大きな差を実感するのは異様な経験だった。
樹木の描き方は練達そのものでまったく迷いがない。左から2本目の影のようなしっかりした小さな木もまわりと同じ墨色である。丘や土坡は、淡墨の細い線でなんども描いてつくりあげているようで、TRYしている線の繰り返しが現れているような感じがする。そのため、一見不合理で、ひょとしたら大破損を修理したものかと思っていた線、特に上方の丘の手前の、まるで波をみているような線、も実はオリジナルであることがわかった。とくに、手前の土坡をじっとみていると、こちらに動いてくるような妙なリズムがある。ただ、下部左端のように微妙な墨法を駆使している部分もあり、上記のtryを繰り返しているような線はむしろ意識的な方法ではあるまいか?
水面の波を描いた部分は下半分は淡墨だけで描き、上部は淡墨に濃墨を重ねている。
この波の描き方には、鋭い神経質な感じを受けた。
どちらかというと未完成を感じさせ、どこで筆を置くか、という問題を感じさせる容膝斎図は、黄公望の「富春山居図」、とくに末尾部分と同じ性格の絵だ。
黄公望とは、個人的に交友もあったらしいが、「富春山居図」との近接性は容膝斎図ではかなりめだっている。このとき、幸い「富春山居図」が本館2Fのガラスケースに全巻広げてあったので、図らずも比較することができた。従来は倪サンと黄公望の様式は相当違うという印象があったのだが、どうも誤りのようだ。近景と遠景を大きく離し、近景に栄養不良の粗雑な樹木を描いた後世の模倣作は、質も悪いが、その特色で既に失格するような気がする。
上方の題記は2つとも濃墨だが、右の作画時のサインと左の2年後の題とでは墨色が異なる。2つともしっとりとした濃墨で塗ったような変な感じはない。オリジナルだろう。
1字破損しているところは削りおとされたような感じになっている。人為的なもので、なんらかの理由があったのだろう。
傷や破損が少々あるとはいえ、状態はむしろ良く、なぜ10年以上展示されていないのか不思議に思った。
細かくいうと、上半の丘の中央部に左から、水平方向に裂けた損傷がある。折り目が劣化したものだろう。また、その右方に一円玉程度の穴がある。
下半の樹木の中央部に3mm程度の剥落穴がある。下部には虫喰いらしい小さな穴が数カ所あるが、墨のあるところではなく、むしろ空白部にある。
上部の題記の左上、上端の紙は劣化していて、上に一枚、相当古い紙を一文字のように継いでいるのは上端の状態が悪かったからであろう。下端はまっすぐ切ってあり、一文字状の紙もないが、いくらかここは切断されているのかもしれない。
全体に構図のバランスも良く、左右の切断はあまりないと考えられる。
紙は、わずかに黄色味がかった微灰白色の紙だが、灰色は、後世のいわゆる倣古箋
のようなどぎついものではない。虫喰い穴から紙の断面をみると真っ白な紙がみえたので、本当の経年変化による変色とみるべきである。どちらかというと磨いた光沢を感じるような緻密な紙である。破損のところでみてもあまり繊維の毛羽たちがないので、北宋時代にみる繊維のめだつ紙ではないと思う。
墨は絵画の部分はいわゆる青墨である。油煙にはみえないが、緻密なもので最上の松煙か?濃墨部分にも特に光沢はない。
上方の跋? は粗い絹の上に渇墨で書いたもの、かなり下手な書である。もともとの表装布の上に直に書いたものを切りとってはめ込んであるのだろう。
表装は、むしろ粗末である。下方左下に一七世紀末と思われる印が2つあるので、そのころの表装か? 表装布には、かなりシミが散っている。軸頭は粗末な木であった。
貼り風帯には墨で線が描いてあるのが妙だった。
15:00に監視の人に時計を示していうと、かまわないというような様子だったので、再び集中してみる。
15:30ごろついに倒れそうになったので、筆談で「看画終了」と書いて電話してもらった。
監視の人と握手、劉さんに厚くお礼をいって退散した。そのあと故宮の展示をみようと思っても頭がオーバーフローしてしまい観ることができない。やっと、2Fの(伝)倪雲林「江亭山色」図をみて、退散する。午前中は、まあまあに見えていたこの画が、甚だ見劣りしてみえるのが不思議だった。
それでももったいないので陶磁器など他のカテゴリーならみれるかと思ってウロウロしたがダメだった。
感動のあまり、ミュージアムショップで、複製の掛け軸を買ってしまった。 これは、少し青っぽい印刷で、上方の傷がみえないのが欠点だが、まずまずのもの。日本でも売っているが、こちらのほうが安く、しかも10月ということで10%引きしてくれた。宅急便で送ろうかと思っていたが、本以外はデリバリしないということで、手持ちになった。しかし、よく考えたらホテルのフロントに相談する手もあったのだ。
(伝)倪雲林 画 採点表