正倉院御物修繕の話、木内半古

明治二十六年宮内省の正倉院御物整理掛が開設され当時の皇太皇后大夫子爵杉孫七郎氏が掛長となられ、堀博氏、稲生真履氏なんといふ人が掛員となり、一方技術者としては金工田村宗吉氏、経師勝矢久次郎氏と私と唯の三人でした。広い赤阪離宮の内の一室で始められましたので、其年の十一月と存じます。 杉子爵以下一同白衣を着して、大きな福番(ピンセット)を持って破片のより分けからやったのです。この時分、杉子爵の狂歌に「木内半田村宗吉仲をよく朝夕かけて勝矢つとめよ」といふのがありました。 引き続き、画家岡田貫業、金工金阪一到、加藤国清、池田五三郎、木工佐藤吉五郎、経師安部広助、研師石川周八、鞘師保坂喜一郎、挽き物師海津大助、柄巻師某等は主なる人と記憶して居ります。後には掛員も技術員も数を増して、二十余人も居たときもありました。場所も赤阪より青山御所の内に移り、最後に麹町三年町の御料地内、工部大学跡に移り、明治三十八年の末に閉鎖となりました。整理掛では、種種の御物の整理が出来ます内に、私は木材の御厨子、筥の御修理から、木彫、木画、螺鈿、鼈甲、象牙、撥鏤 などの修理をいたしました。

正倉院の御物は申すも畏き事でございますが、一品一物ことごとく我邦の歴史を物語る国家の珍宝でありますから、是が保存は尤も大切な事と心得て常に尤も深い注意をして之従事したのでございます。そして宮内省の主義方針としても、修理を致すのは御物を保存するための御修理でありまして、徒らに上ッ側で古色などをつけ、接合の?所を粉色する様な手段は決して行ひませんのです。

私は御修理に従ひましてからは、決していきなり道具を取る事はいたしません。十分に其当時の工人の物を作る心持ち乃ち其気分を会得したいと心得て、仕事をするよりそういふ方面には常に注意をして居りましたのです。それゆへ一つの穴をあけるにも、穴を造るは第二として、きっとこんなものを用ひたと思ふ道具の類の研究を先ずいたして居りましてそれゆへ、稲生さんあたりからは常に木内は仕事をしないで困るといふ様なことを言はれたものでした。然し是しばらくの間で、後には掛の方善く私気持ちを汲んで下すって、十分に御物の研究をしながら安心して御修理に従事する事ができました。

整理掛の閉鎖され、宮内省より御慰労の物を頂戴いたしました時、杉子爵が、[整理掛が始まってから丁度十三年になるな、木内骨折りだったな、オレもくたびれたぞ]と添へられたお言葉は、今以て子孫に伝えてありがたい事と思って居ります。

古い事を考へて見ますと、私の父の喜八が御物木画の双六局の模造をしたのを手始めとして、永い年月数多くの御物の御修理をいたして参りましたが、段々しらべればしらべる程其意匠と申し、技術と申し、拝観する毎に新しい意味を発見いたしまして、益々奥深い物となりまして、調べつくすのは何時の事になりますか、多くの人がいろいろの方面から十分に研究することが大事な事と存じます。

今度はおすすめに従ひまして、記憶を呼び起こした事を少し御話いたしませう。

最初に御修理しましたのが、中倉の黒柿の御厨子と、次に北倉の赤漆文欟木御厨子でした。之は両方とも大破しておりました。大体釘の居所などは一定しておりません。之は察する所ヤリカンナで削りあげた板は、そうキチンと平面ではない故、接合の場所が矢張りキチンとつかないから、必要な部分に釘を打ち込んだのです。それゆえ釘の居所はいろいろになって整はず、見苦しいから別に角にあてた木を外から打ちつけ、是に金銅の飾り釘を打ってある。で自然其釘穴を合わせて見てないと板を接ぎ合わせたなと会得する迄は苦心でした。こういふ次第で、漸く築き上げて黒柿の御厨子は最初弐個分かと思ったものが、両面扉の一個の御厨子となり、文欟木の御厨子は十分なる残片に依って木の質の具合、臍の具合、棚板の送り臍の具合などを調べて漸く完成いたしました。此御厨子の鋲は鉄に銀着せになって居ります。尚之は私一人の考えとして、脚のくり形尚少しの考ふべき節があると思って居ります。

黒柿の厨子は板の内に扉が四枚あって、いろいろに壊れてゐたのを最初はお役人が選り分けて、当てがってみたりなにかして一包みにしてしまったのを、私に見て呉れといふので見ましたが、前申したやうに釘の居所も一定せず、蝶番ひの跡も二分位違います。一つのものとは思へません。ともかくも解らなければ足の欠けたの継いで呉れといふので、それをやりました。
やってゐるうちにいろいろと組合わせがわかってくるようになりましたので、「そっちのを見せて下さい。ここはかうじゃないかと思ふ」といふと、その仕分けをしたのはお役人が毛布にくるんで呉れなんて云って、どうもうまく行きませんでしたが、しまひには、どうしてもそれでは駄目だといふので直下にやれるやうになりました。
剞形なぞもギザギザしたところもあるが、よく工夫してある。足の形なんぞも右と左とく剞形が違ふ。だから押付けて見たばかりでは一つのものとは見えません。ところが並べてみると一つのものらしいことがよくわかる。ととうそんなことで厨子は一つのものにまとまりました。

文欟木の厨子はカミナリの落ちた時分に壊れてしまったのを、それが方々に散らかってゐたんです。塵芥の辛櫃の中に足や羽目が少しばかり残ってゐたので、それでこしらへたんですが、中が一段だらうといふので一段にこしらへたが、あとから本当の羽目が出て来た。それでうまくhozoがあったので中が二段になり完全なものになったんです。足は何しろ格狭間が一と角しか残っていないので、わからないのです。あの厨子に限って脚だけ別の木なってゐるので、亡くなっってしまった。それでわからないのです。
文欟木の厨子の扉の御用をしたのは赤坂の材木屋ですが、あれは木場でめつけた。あれは槻です。槻は欅の種類ですが質は違ふので、奥州へ行くと、槻は欅の牝だと云っています。木の質は朝鮮の朝鮮の欅の様です。目が透いてゐる。普通の欅は目が綾になってゐる。
上の長押の指口のhozoは「こんなhozoはない」なんていふ人も ありますが、あれは古いものが1と角ちゃんと残ってゐたのです。あの中板をみるとほんとの羽目が出て来てみると送りhozoになってゐる。ですから両方にhozoが出ないで嵌ってゐる。そのhozoを見ると、両刃のものでやってゐる。だから刳れてゐます。

木画

精巧なもので私の手をかけたものとしては先づ木画を主としませう。北倉の 阮咸、棊局、双六局、挟軾中倉に沈香木画筆箱、沈香木画筥三合、紫檀木画箱、bin椰木画箱、朽木形木画箱、木画双六局 南倉に木画琵琶 弐面 等何れも 精巧無比と申しても宜しいと存じます。

材料としては、紫檀、黒檀、花rin、黄楊、沈香、青角、金銀などが用ひられて居ります。之を組み立ててゆきます。其の色彩の鮮明で又色の配合のよろしい事は、驚くの外はありません。此の最初の修理には最も苦心いたしました。是は織物の調べと同じく、材料の質の変化と色彩の変化で中中に見分けにはくるしみました。また ニベトニカワの製造もいろいろやったものでした。

又鳥の背に竹の切口を用ひた所などは、単に細かい仕事にばかり熱中して居る内に、竹の切口の斑を利用した所など、実に面白い工人の働きが現れて居ます。

青角の染色は矢張り緑青に長年つけ込んで染めたのが一ばんよろしい。
鹿角を青く染めたのも使ってゐる。今の道具だと早く染まるが品はわるいのです。琴屋で使っていた松印という悪い青を酢に漬けて染めるのがいい。大変長くかかるもので三年位かかります。木は染めてありません。上色に使った画具がいくらか染み込んでゐるのはあります。赤なんぞはほんとの上色ですね。浅黄もあるが藍で染めるんだってんで、紺屋へいったが、藍は他のものへ移すと染まらないから、持ってこいといふが、持っていくわけにはいかないからドンブリへ入れて貰って宮内省へもってきてやりました。 西洋画具がいいと云ったんですが、西洋のものはいけないといふことで使わなかった。金は心に使うことがあります。銀で象嵌したものもありますが銀が錆びて黒く木のほうに染み込んで銀自身は細くなってしまってゐる。

其他の材料

黒柿は主に蘇芳で染めてあります。紫檀紛ひに染めてあるんだなんていふ人もありますが、そうぢゃないんです。蘇芳染は文欟木の厨子にも使ってある。あれは其の時分の流行ですね。
鼈甲は必ず裏に金箔を押して用ひられて居ります。阮咸覆糸の周囲に伏せる鼈甲張などは実に秀でた技術です。
撥鏤の琵琶撥も結構な物です。彫った内に更に彩色を施した手際も驚きますが、此撥鏤の板に木画を配して台や箱の装飾とした手際は、一層意匠の巧妙な所と拝見して居ます。
木製品として黒柿の献物台、悟桐彫の花盤などがあります。 紫檀の小さな墨斗の如きは小さいものであるが、誠に形状の調子のよいものです。 白犀の如意の左右の木画は、矢筈の中心に金線を配し、ために区画が鮮明に非常に高尚なものです。且白犀の頭にも金線をはめ、其根をしめるに水精の玉を飾り、象牙の彫透しと金装の玉錺りが誠に調子よく尤も鮮やかなものです。特に心に竹を用ひてあったこといは感心しました。然し之も其石づきがドウであったかと思って居ます。

撥鏤

撥鏤紅のい色はサイコン(紅の芽)で煮るのです。サイコンは今は画の具やにはありません。
斑竹の筆のもとのところはいい轆轤細工です。遊鐶なんぞは一と鉋一寸あてれば壊れてしまふやうなのをうまくやっています。 これは宮内省に上手な人が居た。私も模造を一つこしらへて貰てつて持っていますが、この人は鉛筆を轆轤細工にかけるのが商売で、そっちの方ばかりやってゐたので、惜しい人でした。

屏風の化粧鋲

屏風の化粧鋲なぞ打物かと思ふと鋳物がある。あの屏風なんぞ際物で、打つちゃ間に合わないから鋳物を使ったんでせう。


上記の聞き書きは、
東洋美術, 特輯 正倉院の研究, November, 1929, 奈良, 飛鳥園, p117-121
をできるだけ、忠実に紹介したものである。用字にやや忠実でないところは、 許されたし。どうしても出ない字と代替できない字はローマ字にした。
聞き書きをやったのは、飛鳥園で「東洋美術」の編集をやっていた安藤更生  氏らしい。安藤更生「南都逍遙」所載「国宝修理譚」に言及がある。
正倉院御物の修理は古くからされているのにも関わらず、あたかも天平の昔から現在、正倉院展や図録でみるようなきれいさで保存されていたかのような錯覚をもちやすい。 ここに修理記録の一端を紹介するゆえんである。
正倉院からの流出ものとして、市場にでたものの中には、明治に修理した人々が、同時に制作した参考試作・レプリカなども混じっているのではないかという疑いを、私は最近感じている。 (2002/9/26) (2002/10/06校正)


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