Lorenzo Monaco | Domenico di Bartlo「奏楽天使に囲まれた聖母子」 |
2005年にイタリアのシエナを訪ねたとき、ピナコテーカで「片膝立ての聖母」を観て、驚嘆した。
まず、14世紀初期のLorenzo Monacoの「聖母子と洗礼者ヨハネとニコラ ディ バーリ」では足こそみせていないが衣の形から左足を立て膝の上に幼児イエスを載せている。
さらに、Domenico di Bartloの1433年の作品「奏楽天使に囲まれた聖母子」では、片膝を立て、もう一方の足を衣から出した大胆な描写であって、これには驚いてしまった。フィレンチェではみたことがなかったので、この図像は何か地方的な図像なのではないかと考えたくなる。
興和2年 造像記 全体 | 興和2年 造像記 部分 |
孝子伝 郭巨 | 孝子伝 董永 白黒反転 | 鞏県石窟 |
ここで重要なのは、これら3例(造像記、孝子伝、楽人)の時代が接近しており、殆ど一世代二、三〇年に収まるくらいしか年代のばらつきがないことだ。この3つの例だけから言うのは無茶だが、北魏末520年前後に、この片膝立てという姿勢が儀礼的なかしこまった姿勢としてある程度採用されているのではないか?という気がしてくる。
片膝立てという姿勢そのものは太古からあるのだろうが、それが儀礼的な姿勢(正座)とみなされるかどうかは、文化的な問題である。古いところでは、秦始皇帝兵馬ようの弓兵の例もあるが、これは「正座」しているとはいえない。漢時代と推測される鍍金青銅熊は何かの台座のようだが、片膝立てで上の重さを支えている(旧Stocklet Collection 高6.8cm)。 同類は大阪市立美術館や旧Paul Singer Collectionにもあるようだ。
一方、南方では、梁初期ごろと推定されている、南京近郊の専(レンガ)画の有名な「竹林七賢と栄啓期」がある。七賢中六人は皆片膝立てであり、阮咸は胡座、栄啓期だけが正座しているようだ。ただ、七賢は、もともと自由放埒で、堅苦しい礼儀を無視した生活をしていたという伝説に基づいて、この姿勢になっている可能性が高い。片膝立てで琴を弾奏するのはかなり難しいと思うのに無理にそう描いてある。従って、儀礼的な正式の姿勢としての資料には使えないだろう。 ただ、この「竹林七賢」「高士」の仕草/ポーズが、熱狂的に漢文化を導入していた北魏末期に輸入されて新しい流行になったという可能性はある。
少し早い時期の北魏の例として雲崗石窟第七窟(ACE460年前後?)の有名な供養する六天人像を挙げてみる。ただ、これは尻を浮かしているので、半ば立ち上がろうとした姿勢で、礼拝しているのであって、どっかりと座しているのとはちょっと違う、第六窟の礼拝菩薩などにもやはり同じような姿勢をみることができる。 とすると、やはり60年後のACE520ぐらいに普及時期をおくべきかもしれない。
【その後】中国では、唐後半以後は椅子の生活になるので、この姿勢・作法は一般には忘れられることになる。ただ、この姿勢は、仏教絵画の維摩の図像としては継承されているように思う。俗人でいながら文殊と堂々と渡り合う維摩は、中国では竹林の七賢などと同じ「高士」のイメージで造形されることが多かった。維摩は雲崗石窟の浮き彫りでは椅子に座っているが、敦煌の唐時代の素晴らしい壁画2点では明らかに片膝を立てた座り方である。220窟東壁南側、103窟東壁南側である。変色している壁画だが、203窟西壁龕南側・335窟北壁の維摩も片膝を立てる姿勢である。時代が下って、元時代の白描画維摩でも、片膝立てをやっている。東福寺所蔵の維摩像などを例に挙げることができる。
一方日本では、この姿勢は能楽で舞台わきに控える姿勢として残っている。文献によると利休のころの初期の茶は、片膝立てでやっていた場合があったらしいのは面白い。明治時代以降に日本を訪れた中国の学者は、日本に漢魏の遺風が残っていると感じたようだ。魯迅も魏晋の風俗を説明するのに、日本の風俗を例えにしていた。