墨談
藝術叢篇 11輯 台北, 1978
2000, Jan, 10
民国10ー20年ごろ。墨の収集に凝っていた。当時、盛伯希の収集品は既に散逸して いて、朱幼屏や陳剣秋 の旧蔵品が市場に出始めていた。袁励準のコレクション が当時最大であった。私もすくなからず名墨を集めることができた。 ただ、上海でみた ショウ格之の4墨は蒋穀孫に買われてしまった。残念に 思っている。
青島に避暑にいったとき、 維県にいって郭氏の蔵墨をみた。知白斎墨譜に発表されている。かならずしも佳墨ばかりではなく、偽物もあった。 袁氏以外では、潘博山が滂喜斎の後を受けて、佳墨150以上を数える。巨観である。
古墨の佳墨は1個使えば1個なくなる。同治光緒の墨でさえすでに古玩となっている。 しかし良い書画の制作には、旧墨でないと(近年の墨が粗悪なので)無理だ。 書画家は手をこまねいているが、購入組合を造って定期的な予約頒布をすることに し、曹素功と胡開文のような企業に厳しい品質を要求すれば、墨製造技術が滅びずに すむだろう。
民国24、5年、史良才は佳煙数十斤を得て、徽州の汪君と協力し、 徽州の良工に依属して造り友人に達に買ってもらうことになっていた。私も 買う予定だった。が、史良才君が事故にあい、計画は中止、佳煙は紛失してしまった。
今日伝統的な墨を制作するさい、人件費の負担が大きなネックになる。しかし、 搗く工程は機械化できるだろうし、油も安価な油を代用できるだろう。採煙も便利な 道具を造れるはずだ。全国の利用者は千百万以上だろうし、国外の需要もある。 一方、官庁企業使用には、インク墨汁など化学製品を開発して安く販売することも 重要である。
近年、良い墨を探しつづけていたが、ろくになかった。書画家に訊ねてみると、 「市場にある墨よりいいのを蓄えてある。」といつも答えてくる。私は「近年の経済 情勢では、墨のような伝統工芸が生き延びるのは難しい。我々が支援しなければ、 滅びてしまうだろう。」と警告したものだ。 そこで、近年の佳墨を集めたり、墨工と話すことにした。そして、我々の工場は 50年前からカーボンブラックを使っていたことがわかった。初はドイツと日本、後には もっぱら日本から輸入していた。 中国の工場はカーボンブラックを膠と添加物と混合して、伝統的な型にいれて製造し ていただけだったのだ。
日中戦争で日本のカーボンが入らなくなって、油煙を試みたが油価高騰のため、四川 の森林地帯に職人をおくり工房を建て、松煙をとることにした。膠も薬物も 入手困難で化学製品を使用した。 メーカーは利益第一で品質を軽んじ、ユーザーは使っている墨がカーボンブラック製だとは知らず、国粋だと誇っている。これは、蘇州の絹織物が長く輸入レーヨンを使っているのに、消費者が気にしないようなものである。 戦後、自分で煙をつくっていたのは、曹素功と胡開文だけだったのである。 四川の煙も、不定期供給であり、カーボンも同様なので、両種の煙を混ぜて制作 し、色が悪くなった。それでも、急な注文には応じきれず、戦前つくった日本カーボン の在庫墨を出荷していた。
1、2万元の資本を提供して、曹素功や胡開文に伝統的な墨を造らせれば、必ず 出来ると思うのだが。
あるプロフェッシオナル曰く。「伝統的な墨はあまり黒くない。化学物質を使う研究を すべきだ。」最近の粗悪な墨を伝統的な墨と間違えているのには、全く驚いてしまった。
墨の製造技術は清末に衰え、墨コレクションは清末に盛んになった。この原因は複雑 であるが、殿試の答案作成に佳墨を貴んだのが1因である。近代の蔵墨家は 盛伯希を第一とし、王仁堪、周鑾 台、馮文じょう、翁同和、寶煕、袁励準 いずれも、翰林院メンバーである。彼らは蔵墨でのみ名があるわけではない。 ただ、彼らが名墨を少なからず使ってしまったのも確かである。
蔵墨でのみ、名がある人は、 (以下は人名の羅列なので略)
訳者注記
墨の大コレクター 葉恭綽(1881-1966)の文章である。 もと、香港で出版された記事の、台北でのリプリントのようだ。 これは、中国墨がここ百年劣悪化したこと、中華人民共和国成立後、 なぜ、曹素功と胡開文の企業 しかのこらなかったのか? などを、よく説明するので(輸入カーボンが入らなくなったから)、 かなり信用がおけると思う。図版は、19世紀の墨(胡同文 の作)図版は訳者が勝手にいれました。 translated by Takaki Yoshitaka at 1996/3/ ---------------------------------------------------------------------------