メトロポリタン美術館前館長の「にせもの美術史」
後書きを読むと3つの章を省略したらしいが、それでも翻訳はありがたい。価格的にも、原書のペーパーバックが20ドルぐらいするから、まあ安いといえましょう。
ホーヴィングは、ドイツ人のエキスパートを信頼して使い、かつ学んでいる。大学でワイツマン教授(ドイツ人の中世美術の権威)に学んだ影響かもしれない。ワイツマン教授は、バチカンの「ヨシア画巻」をマケドニア朝ビザンチンにまで時代を下げて考えた碩学である。9章のシュタイングラバー、14章のソンネンバーグのケースが著しい。
一方、この本では、三枚目の役柄のロリマーは、もともと、メトロポリタン分館
クロイスターズ創立当初の責任者で、大きな業績をあげた人である。
本書のなかで、ホーヴィング自身が遭遇した話、メトロポリタン美術館が直接関係した話には、詳細で興味深い話が多い。
125頁のメトロポリタン美術館のエトルスクの偽物彫像は、一時ずいぶん話題になったらしいが、写真を観るのはこれが初めて。詳細な経緯もホーヴィングのこの本で初めて読むことができた。
ただ、全体に図版が少ないのは困る。ミケランジェロのダヴィデ像のように、有名な本物については、画集などでみることができるが、議論の対象となっている偽物については、写真図版があまり公表されていないので、偽物の方だけでも写真図版が欲しいところである。本の価格をおさえるためだろうが、あと5、6点あれば良かった。10章の聖母子石像の話では、最低2枚、偽物の写真と、そのもとになって破壊された石像の写真がないと、理解できない。
総じて面白い本だが、中には、明かな筆のすべり・事実誤認がある。教科書的に読まれると困る。
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例えば、47ー50頁:ベネチアのサン・マルコ寺院の美術品について「最近までビザンチンの代表例だとされていた」というような言い方は不適当のようだ。1959年出版の一般向きの画集「サンマルコ:モザイク」で、すでに12世紀以後のビザンチン美術を模倣した様式だと記述されている。また、ベネチアのサン・マルコ教会の宝物には、「コンスタンチノープル、あるいは古代の中近東から運んできたものは四つしかないというのが現在の定説である」は正しいか? 3〜5世紀の豪華なガラス器だけでも2点以上あるようだから、勘違いか、誤植だろう。
ref. T. Pinatti, SAN NARCO, MASAIQUE, Instituto Geografico de Agostini, NOVARA, 1959
ref. 由水常雄、ガラスの道、中公文庫
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75頁、最初の5行のルーベンスの言葉は、絵の買い手のイギリス人のお客さんを案内して、自分の工房の作品をみせながら言った言葉だ。商品の説明ですね。背景が曖昧なまま引用されているので、まるで、ルーベンスの告白のように読める。
Friedlaenderによれば、同様のあけすけな言辞は、ルーベンスのノイベルグ伯ウィレムあての手紙にも見え、当時ではあたりまえの制作形態であったらしい。
ref. ゼップ=シュラー, フェイクビジネス(贋作者・鑑定家・商人)、小学館文庫
ref. Max J. Friedlaender, Art and connoiseurship(translated), 4th ed.,Oxford, UK,1946
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96頁 キリコ が自分自身の旧作を贋作した。。という噂。
これはパリの画商とキリコとの決裂と関係がある誹ぼうらしいので、文字どおりにはとりかねる。
ref. キリコ, 自叙伝
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114頁; リューベックの中世の絵のマルスカートによる偽作について、「なぜ偽物とわかるまで数カ月もかかったのか、不思議な気がする」といっているが、理由は簡単、とても高いところにある絵なので、実地調査をするのが簡単ではないから。足場を組まなければならない。
ref. ゼップ=シュラー, フェイクビジネス(贋作者・鑑定家・商人)
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114頁; 西ドイツのアデナウアー首相の事件。
ホーヴィングの筆致はあまりに悪意に満ちているように思う。政敵に知られたら命取りになりそうな背信行為を政治家が堂々と、人前でやるだろうか? たとえ引退した政治家でも、こういうことは表だってはやりそうにない。
アデナウアーが絵を何度もみても不思議ではないし、テッセン老夫人から贈られたとき、無理に返したり固持すれば侮辱したことになると、あえて受けたのだろう。中央ヨーロッパのホスピタリティとはそういうものである。粗野なアメリカ人には解らないかもしれないが。
その後、どうやって返すか考えたあげく、あえて画商を通す方法をとったのだろう。あまり良い方法ではなかったと思う。
再度みたとき賞賛しなかったのは、また面倒なことになるのを避けたのだろう。
テッセンにあとで価格を聞いたのは、画商がこれに乗じて不当なマージンをとらなかったか確認したのだろう。たぶん、マージンは大きすぎたように思う。
また、この絵はサインは無いがヘールトヘン作ではないだろう。現代ではペトルス=クリストスの作とされているものだと思う。もっとも、文章だけからの推測だから、似たような絵がテッセンにあるのかもしれない。
ref. ティッセン=ポルメッサ美術館,世界の美術館,朝日新聞社
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196-7頁; 国際ゴシック様式の定義
「ブルゴーニュ公国を発祥の地とし、1400年から20年頃にかけてプラハやウィーンなどの宮廷工房で成長し」といっているが、北方にしかなかったような錯覚を与えるものである。
複数の事典・解説書などを対照したら、ロンバルディア・フランス・フランドル・ボヘミアを中心とし、年代も14世紀末から15世紀初にわたっている。
ref. Ian Chivers ed., The Concise Oxford dictionary of Arts and Artists, 1990
ref. Peter and Linda Murry, Dictionary of Arts and Artists, 5th ed. Penguin Books,
1983
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254頁: ギリシャ?の青銅製の馬について「X線検査と熱ルミネッサンス法の二種類で調べた。すると、二通りの年代が測定された。」となっているが、X線では
金属そのものの絶対年代は測定できないはず。陶器の年代を測定する熱ルミネッサンス法を、青銅の馬に使う場合、内部の焼けた砂を掻き採って検査したのではないかと思う。
ただ、この馬は昔、ガンマ線(放射性Irによる)をあてて、内部を撮影しているから、熱ルミネッサンスで使用する結晶格子トラップ電子がガンマ線で乱された可能性が高く、年代はうまく測定できない。したがって、この年代はあまり信用できない。
「芸術家」という概念のない古代中世における「レプリカ」「コピー」は、制作の技法としてあたりまえのものだった。したがって、そういう時代の「画稿」や「手本」による制作について、2、3章でいう「にせもの」よばわりは単なる「言いがかり」である。
5章以降15章までは、「19世紀以降に作られた、金めあての贋作」 に「にせもの」の定義を限っているから、問題はないようだ。
一番印象に残ったのは、59頁のチェリオラの墓の話である。怪談としても一流で、この話がほんとでも嘘でもかまわないと思う。一読、慄然となった。