夢殿救世観音の光背 と東アジア

1999, Dec. 31

概要

法隆寺夢殿 救世観音の光背は古代日本の仏像のなかで群を抜いた鋭い作品である。 そして この特異性は6世紀以前の東アジアの美術とリンクしている。

序論

始め英語で書いたEnglish Textを 自分でリライトした。ちょっと奇妙な感じではある。

発見

Fig.1 Fig.2 1879年, 岡倉天心とErnest Fenollosa は法隆寺夢殿を調査した。 かれらは私人というより、廃佛棄釈で荒廃した古都の文化財を調査 保護するための、政府のエージェントだったらしい。 夢殿の救世観音像は数世紀というもの秘められており、だれもみたことがなかった。 鎌倉初期の法隆寺の要職であった学僧  顕眞でさえ、「だれもみたことが ない。仏像のかたちはわからない。」とAD1238前後に 記録している。 実際、天心とFenollosaは500mもの白い布をほどいて ようやく。8世紀以前では最良のコンデションにある 金箔貼木彫佛をみいだした。 そのとき、法隆寺の僧たちが逃げ出したという。寺に伝わる伝承では、 この秘仏が人目にさらされたとき法隆寺が崩壊するということに なっていたらしい。

この話はもはや伝説である。実際には、明治17年だという説、明治5年、 蜷川・町田の社寺宝物調査で発見されていた、という説もある。

現在,4月末ー5月と11月に各2週間ぐらい公開される。 私は1999年4/30に拝観したが、 網越しの拝観、しかも暗く、非常に観づらかった。光背・宝冠はほとんどみえない。 前に香華があるので、下部は隠されてしまっている。しかし、粗野な年輩の鑑賞者や、 義務的にみて通り過ぎる修学旅行生の大群、信仰の場ということを考えると、少しは 理解できる。 実見したら、どの写真・図版でみるより優美である。多くの写真でみる不気味な ところがない。岩波書店の巨きな本「大和八大寺大観」の図版が比較的 実見したときの印象に近いようだ。

データ

7世紀(推定)。国宝。 金箔押し一木造。 像高179.9cm. 宝冠は金銅透彫り。青い半貴石をちりばめる。手に持つ宝珠の上の 炎は金銅板。

光背とその拓本

Fig.3 ここでは、光背の模様だけを議論する。 光背は 一木のブロックで 高123cm。 良い写真でも模様の線がはっきりでないので、看過されやすい。 金箔が部分的に剥落しているので、さらに、線を把握しにくく なっている。この古い拓本がもっともよく模様の美しさ線の厳しさを表している。 この図版はA3程度に縮小された精密な コロタイプ複製 . から採った。 この拓本は珍しい。1つしかないかもしれない。 古代の金箔押しの木の上で拓本をとるのは、剥落・破壊の危険があるからだ。 おまけにこの光背は頭部に短い棒で直接ついているので、いったん 分解しないと拓本をとることはできない。 普通ではまず不可能である。権力のある政府の調査員・官僚・高位の学者、 または法隆寺の要職の人が行ったのだろうか。 資料 では天沼博士蔵となっている。

模様

光背の模様は浮彫りである。細い浮彫線によって5つの部分に区切られている。 中心からあげると
  1. 蓮華
  2. 龍 唐草
  3. 連珠紋
  4. パルメット
  5. 火炎紋  と 塔

六龍回日

Fig.4 Fig.5 中心は蓮華である。これは日本・中国・朝鮮の古代光背にはよくある ものである。しかし、ガンダーラ彫刻ではまだみていない、 中国起源の太陽・光明のシンボルの ような気もする。 林巳奈夫 はこのシンボルは歴史以前新石器時代に遡るとしている。
その外側は特異である。 6龍が絡まった図を模様化したもので、ケルトのデザインすら連想する。 これは、紀元前4世紀ぐらいからの、とても古い龍模様を伝承するものだろう。 たとえば図版は紀元前3世紀の青銅鏡裏の模様で4龍がリンクしている。 いうまでもなく、 古代のデザインより、光背はずっと流動的である。
この6龍は、李白の楽府「蜀道難」の「六龍回日」の句を思わせる。 この句は太陽神 「羲和」が6龍のひく車に乗るというアポロンのような 神話をふまえたものである。 袁[王可] によると、准南子の逸文にこの神話があるそうだから、前漢以前からある 神話である。

このような模様は、雲崗石窟・龍門石窟の概論図録にもみつけられなかった。 敦煌壁画、日本の多くの金銅仏光背にもみない。 特異である。

鏡と光背

古代中国の青銅鏡背面の装飾とこの光背のデザインには、共通した要素が あると考えている。線で区分した帯による構成である。 古代の中国の制作者は鏡のデザインを光背にコピー したのではないだろうか?。 光背も鏡も光を反射し、表現するものである。また、東大寺大仏殿では大きな 鏡が2面以上、装厳に使用されていた。また、鏡を埋め込んだ光背もある。 両者の間でデザインの貸し借りがあっても不思議ではない。

パルメット

Fig.6 Fig.7 7-8世紀の日本美術では、パルメット(忍冬唐草)模様は珍しくない。 しかし、このパルメットはもっとも厳格で、優れている。 もともとヘレニズム的な模様ではあるが、直接には朝鮮から の輸入だろう。なぜなら、右の 高句麗の古墳壁画の例が 中国の石窟の装飾模様例より、この光背に似ているからである。 これは平壌近郊 内里1号墓 の内部装飾である。6-7世紀と 推定されている。

同時代の光背

Fig.8 類似した模様の小さな鍍金青銅の光背が東京国立博物館にある。 高18.1cm。これは1874に法隆寺から皇室へ売られた法隆寺献納宝物の1つで、 法隆寺国宝館に常設展示されている。 この外側の部分はかなり似ている。火炎模様も似ているし、3本の相輪(お寺の塔 の最上部にある構造物)/傘蓋 がある塔はそっくりである。7世紀と推定されている。 どちらも、法隆寺に伝わったものであるし、この光背は、 救世観音の光背をもとに模写したとも考えられる。

法華経の塔

Fig.9 Fig.10 最外層の上部頂点近くに、3つの相輪/傘蓋のような細い構造物を立てた、塔のよう なお堂のようなものがある。 同じく三本の相輪をもつ塔では朱鳥元年(AD686)の長谷寺法華変相銅板が ある(右図)。この銅板は、法華経 見塔品の 光景だろう。地面から 湧出した巨大な塔のなかから、過去佛である多宝如来が、釈迦の説法を賞賛し、 正しさを確証する。 さらに多宝如来が半座をあけて、塔の中に両如来が座すという劇的な場面である。 これから、判断すると光背の塔も法華経をふまえたものだと考えられる。
 
 
 

Fig.11 この場面は北魏東魏北斉のころは非常に人気があったらしく、おびただしい 大小の像が制作されている。山西省大同の 雲崗石窟第六窟 の石刻浮き彫りにもある。この浮き彫りは三本の相輪といい、上部の構造といい、 すでにあげた日本の3つの例とよく似ている。夢殿の光背の塔も北魏様式を 受けているものではないだろうか。

さらに、法隆寺内部では、 金堂四天王中の 多聞天がもつ塔(5つの相輪)があげられる。 しかしながら、ウオーナーの写真(1923)では、一本しか残っていない。 現状の五本の相輪が昭和の修理(上代の彫刻1940では存在) なのか、部品を発見して再構成したのか わからないので、留保しておく。
 
 

火炎模様の様式

Fig.12 外側の第5層は強靭でリズミカルな火炎?唐草?模様である。 一応火炎模様ということになっているようだ。上方へだけではなく下方にも 巻き込んでいるので、あまり火炎らしくない。 前述の金銅光背 も同じ様式である。小さいこともあり、 夢殿の光背ほど鋭いものではない。
5-6世紀中国から 火炎模様光背の例を2つ示す。 この金銅釈迦像(Fig.13) Ref. 少なくとも1987年までは日本にあったが, 今は台北故宮博物院にある。 高さ約44cm height. 太和年間AD 480-490ごろ制作されたもの。 北魏の金銅佛の代表作の一つである。 この光背の模様は、迫力では夢殿の光背に迫るものがあるが、 様式的には少し違っている。少し火炎模様が幅広に四角ばっているように みえる。 別の小金銅佛(Fig.14) は東京国立博物館にある。 10cmぐらいの小像である。東魏興和4(AD542)の年号がはいっていて、観音菩薩 であることも明記してある。 ちょっと観音にはみえないかもしれない。 光背の巻き込んだ火炎模様は、かなり夢殿の光背に近い。 時代が近いほうが、より似ているというのは,自然ではある。
 

5-7世紀での火炎模様の意味.

Fig.15 5-8世紀の中国の仏教美術では、火炎模様の光背は一般的なものだった。 現在残っているものも石彫・金銅佛だが非常に多い。 上記の太和佛 は代表例である。 夢殿の光背もその伝統を承けているのだろう。

でも、これは本当に「火炎」なのだろうか? 聖像が火炎のなかにあるというのはちょっと奇妙だ。 不動明王や愛染明王などが火炎のなかにあるのは8世紀以降でも そうだし、また、その属性からいってもっともなことだ。 しかし、悟りをえた如来でさえ、火炎のなかに表現している。

ここで仮説を述べる。 これは古代から表現された雲気・霊気であるかもしれない。 戦国時代以前から、来世や神神の国は、神的エネルギーが 雲気のかたちでみなぎっているように、表現された。 例として、漢時代の金メッキ酒器の裏に描かれた鳳凰の絵(天理参考館所蔵)を あげておく。鳳凰の回りに雲気の線が多数描かれている。 これは、実用の器にこういう絵が描かれていたとは 思えないので、埋葬用なのか、埋葬の際に装飾したものだろう。 聖像がエネルギーの気のなかにあるというイメージが 5-8世紀の中国人に自然に感じられたので、 この火炎模様がごく普通に使われたのだろう。 矢代幸雄 がコメントしているように、 ギメ美術館にあるガンダーラ彫刻には、佛陀が火と水を噴出する 奇跡を現したものがある。Winthlop Collectionの中国・または中央アジア産の 極初期の仏像に炎を肩につける例がある。このような先例が中国における 火炎模様のきっかけになったかもしれない。 しかし、おおいに歓迎され広く行われた理由にはならないと思う。 またガンダーラにおいてさえも、光背に火炎を描くことは少ない。

結語

夢殿救世観音の光背は、高い美術的水準と、6世紀以前の中国・朝鮮の古代美術に つながる豊かな内容を もっている。拓本の良い複製が流布すれば、多くの成果が上がると思う。

References

  1. 木原文進堂, 古代芸術拓本稀観, 奈良, 1945以前発行年不詳
  2. 飛鳥園, 東洋美術, SPECIAL, Vol.2, 1931/Oct., 奈良
  3. 飛鳥園, 日本美術史資料, 第2集, 1935, 奈良
  4. 荻野三七彦編著, 聖徳太子伝古今目録抄 ,法隆寺, 昭和12年
  5. 唐詩三百首
  6. 小川晴暘, 大同の石佛, 1936, アルス社, 東京
  7. 東京国立博物館, 法隆寺献納宝物調査資料,金銅佛5, 1990, 東京
  8. 東京国立博物館, 法隆寺献納宝物, 1996, 東京
  9. 林巳奈夫, 中国文明の誕生, 吉川弘文館, 東京
  10. 袁[王可], 山海経校注, 上海古籍出版社, 1980
  11. Sherman Lee, Five Early Guilt Bronzes, Atribus Asiae, vol XII, 1949, Ascona, Swiss
  12. 小野勝年, 高句麗の壁画, 平凡社, 1957, 東京.
  13. 朱栄憲, 高句麗の壁画古墳, 学生社, 1972, 東京.
  14. 矢代幸雄, 健陀羅式の金銅佛, 美術研究, No.117, 1941, 東京.
  15. 奈良の寺院建築写真が多いサイトを紹介します 奈良写真館(Japanese Text)

 

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