ゲントの祭壇画の盗難とその模写 、及び2、3の問題

2000年11月初稿 2003年加筆  2015年6月26日数カ所訂正)

1934年4月10日の夜から11日の朝の間に、ベルギーのゲントにあるシント=バーブ聖堂のヴェイト礼拝堂から、十五世紀北ヨーロッパ最大の傑作、 ゲントの祭壇画 の左下のパネル二枚が盗まれた。 グリザイユで描かれた「福音書の聖ヨハネ」、とその裏側にあたる色彩かな「正しき裁き人」である。「福音書の聖ヨハネ」はブリュッセル北駅、荷物取扱所でみつかったが、「正しき裁き人」については、 犯人から、大金を請求されたベルギー政府は拒否し、 「正しき裁き人」はいまだにみつかっていない。被疑者 は、なぜかその年に没し、死の床で、[所在を知っている]と漏らした。結局、具体的な場所はいわなかったのか、「正しき裁き人」はいまだにみつかっていない。この2枚は、 本来は一枚の板の表裏のパネルであったが、後述するように一九世紀に2枚に分離されていた。

これは二十世紀の美術盗難事件のなかで、最も重要なものと考えられる。 もっと多量の盗難、大画面のものの盗難はいくらでもあったが、最も謎めき、最も重要な盗難はこれだろう。
それはこのゲントの祭壇画が、年代が確実な(1432)最初の油彩画の大規模な遺作であり、謎の画家フーベルト=ファン=アイク(?-1426年9月18日逝去)の唯一確実な作品を含むからだけではない。その作品が傑作であり、しかも、開いた時3.4x4.6m、26枚の画面の集合という大作で、保存状態もまあ良く、その時代の代表作、美術史上の金字塔であるからである。デューラーは、その日記(1521)に「極めて貴重かつ入念な絵画であり、エヴァ、聖母マリア、父なる神、が特に優れている」と記し、岡部紘三「フランドルの祭壇画」は「油彩による輝くばかりの明澄な色彩で、画面の前に立つと、その鮮烈な美の迫力に戦慄に近いものを覚える」と最大限の賛辞を捧げている。

フーベルト=ファンアイク とヤン=ファンアイク

どの部分が弟ヤン(?-1441年7月9日逝去)の作品でどの部分が兄フーベルトの作品なのかははっきりしないが、私の感じでは、内面中央上部の3面(聖母、洗礼者ヨハネ、父なる神(キリスト?))と、奏楽合唱の天使二面はフーベルト。アダム、エヴァ、アベルの撲殺、カインとアベルの奉献、はヤンの作品。外面中央部 「受胎告知」はフーベルトの構想を大幅に変更した跡が赤外線写真でみつかっているので、ほとんどヤンの作品。 外面上部の預言者ザカリア・預言者ミカと巫女クマエ・巫女エリトレア はヤンだけの作品にみえるが、やや不確定。 内面中央部下部の「子羊の礼拝」は、フーベルトの筆を中心にしているが、ヤンの筆が入り混じっているようだ。さらに後世の修復もはいってややこしい状態になっている。外面下部、寄進者のゲント市長を勤めたヨース=ヴェイトとエリザベス=ボリュリュート夫妻の肖像、特に顔は、ヤンの作品ではなかろうか。他の部分はフーベルトの構想の上で、相当な変更も含めて、ヤンが描いた作品のように感じる。
この分類は、いまだに決着がつかない難問で、「フーベルトは構想と下絵しかせず、皆ヤンが描いた」(これは時間的に無理、ヤンは2年働いたのみ)「枠の銘文は偽作でフーベルトは存在せず」という極論さえでたくらいだから、アマチュアが楽しむにはいい話題だと思う。

Joseph Van der Vekenの模写

1939年にJoseph Van der Veken(1872アントワープ-1964Ixelles)の模写「正しき裁き人」の模写が祭壇画にセットされた。この模写は非常にできがいい。

私が1980年にみたときは、まだ、ヴェイト礼拝堂にあり、担当者が定期的に扉をあけて、堂に入れ、祭壇画を開閉して説明してくれた。 2001年9月現在、巨大な鉄とガラスのケースに入っている。ガラスこしでみるのだし、祭壇画全体が高さ3m以上という大きなものなので、あまり近くでみることはできない。そのためか、模写と原作の区別はほとんどつかない。強いていえば、馬の眼が模写のほうがクリクリと愛らしくいかにも十九世紀好みのようにみえることぐらいだ。
最も驚くべきことは、1950-1951年に,最大で十二層に及ぶ古いニスを除去するクリーニングをやっているのに、1939年の模写が違和感なく調和していることである。模写画家は、この明るくなった原作の画面を一度もみたことがないはずだ。それなのに、どうして、洗浄後の画面と調和した模写を描くことができたのだろう。たぶん明るく描いた上に、他の洗浄前の暗い画面と調和させるために、色の濃いニスをかけたのだろう。そうでないと洗浄前なら模写が浮いてしまうはずである。洗浄時に原作も模写もニスが洗われ、現在の明るい画面になったとも考えられる。もっとも、この推測は正しくなく、1939年の時点では、模写はひどく浮いていて、出来の悪い模写だといわれていたのかもしれない。

しかし、一度もみたことのない原作とよくも調和させたものだ。 普通模写は厚い汚れたニスが覆った暗くなった原作をみて描くので、クリーニング後の原作よりずっと暗い色で描いてしまうのが常である。[Joseph Van der Veken]はよほどファンアイクの技術を材料に遡って研究したに違いない。1種の復元模写を行ったのかもしれない。修理の専門家とはいえここまでできるものであろうか?
あるいは、保存のよい古い模写を参考にして色合わせをしたのかもしれない。 東京国立博物館にも巡回されたユーロパリア展では、最後のコーナーに17世紀ぐらいのやや縮小した模写が展示されていた。

私は、ふと、消え去ったパネルは、なんらかの事故で、粉々になり、その小断片を、画家が手元にもっていた、というようなことを、想像してみたくなる。
下にゲントで買ったパンフにのっていた、祭壇画の歴史を訳出する。盗難の詳細を初め、従来あまり書かれなかったことも記載されていて非常に興味深い。

ゲントの祭壇画の伝世史


(翻訳, Source: ref. The Ghent Alterpiece p.15)

ゲントの祭壇画は、 現在の良い保存状態から想像されるように平穏に伝えられてきたわけではない。1566年と1578年には偶像破壊主義者から逃れるために隠された。これはカトリックとプロテスタントが宗教戦争を戦った時代のことである。1700年までに、なんどかクリーニングされ、その際、小規模の修理が行なわれた。

だが、真の苦難は、フランス革命の時代に始まった。、1794年、フランドルがフランスに占領されたとき、中央の4パネルはパリへ運ばれた。そして、1815年ナポレオンがヲータールーで敗れるまでパリにあったのである。
1815年に返還されたが、1816年、ゲントの大公Le Surreによって、アダムとエヴァを除く翼画がブラッセルの古美術商L.J. NieuwenHuysに6000フランで売られた。Nieuenhuysは 後に、100000フランで英国の収集家 E. Sollyへ転売した。E. Sollyは当時アーヘンにいた。
1821年E.Sollyの全コレクションはプロシア王フリードリヒ=ウィルヘルム三世に500000ターラーで売られた。1918年まで、ベルリンの美術館に留まることになる。この時代に絵の表と裏が切り離されて額装され、1894年に展示された。
1822年のヴェイト礼拝堂の火災は危うく残った中央パネルを滅ぼすところだった。 熱い灰が祭壇画に降り注いだ、消防隊が炎から急いで救おうとして、「子羊の礼拝」の大パネルが横に2つに割れてしまった。この割れ目は、今も子羊の上の草原に観ることができる。 この時の修理の際に芝生の一部と子羊は補筆された。現在は、足だけが、van Eykが描いたままの絵である。
1861年、ベルギー政府はアダムとエヴァのパネルを買って、ブリュッセルに移した。替りに、Michel Coxieが描いた模写が教会に与えられた。そして、Victor Largyeが、アダムとエヴァに衣装を着せた新しいパネルを描いた。(訳注、現在、シント バーブ聖堂の一角に飾ってあるものがこれかもしれない。) この段階では、オリジナルの祭壇画はみるかげもなくなっている。 解体された祭壇画は、1918年まで一緒にならなかった。

ベルサイユ条約によって、ドイツは翼部を返却し、替りに賠償金を75000000フラン減額してもらった。 同時にベルギー政府はアダムとエヴァのパネルを返却し、ここに1794年以来、ようやく、元に戻った。
この再統一は、長続きしなかった。1934年4月10日の夜から11日の朝の間に、「正しき裁き人」のパネルと、その対である「洗礼者ヨハネ」のパネルが盗まれた。絵の身の代金を要求するサインにはD.U.A.とサインをしていた。彼はグリザイユの「ヨハネ」はブリュッセル北駅左手荷物オフィスを通して返却したが、「正しき裁き人」は大金をめあてに渡さなかった。
事件は、被疑者のArsene Goedertierが同じ年に急死したことにより、ややこしくなった。死の床で、「どこにあるか知っている」と告白したが、数十年の捜査にもかかわらず、失われた宝物はでてこなかった。

祭壇画の災難は1934年では終らなかった。
1940年5月16日、ドイツの手におちるのを恐れて、フランスのPAUにあるアンリ4世の城へ移された。しかし、ナチス はヴィシー政府になにがなんでもドイツに送るように圧力をかけた。1944年に、オーストリアのアルト=アウスゼーの岩塩坑に7000点の美術品とともに隠された。 
ドイツの勝利の最後の希望がアルデンヌ攻撃の失敗によって打ち砕かれたとき、 責任者の軍人は、「国際ユダヤ」の手に渡すまいと、アウスゼーの全ての美術品を吹き飛ばそうとした。好運にも、この邪悪な計画に不満をもつ人々がいて、連合軍に美術品の所在をしらせた。1945年5月8日に絵画は辛くも救われた。

ブリュッセルにしばらく展示され、ゲントに返すまえに、調査された。1986年まで、祭壇画は本来の場所で展示されていたが、安全のため、以前の洗礼堂であったDe Villa Capelのガラスケースに移して展示されている。

以上。

この記述に、補足したいことを(Faggin)から抜粋する。

つけたし

REFERENCE

  1. The Ghent Alterpiece, Ludion Guides, 2001, Ghent-Amsterdam
    ゲントで買ったパンフ、色もよく、記述も面白い。お徳用。
  2. 岡部紘三, フランドルの祭壇画, 勁草書房, 1997
    図版はあまりよくないが、初期フランドル絵画に関する、優れた研究書
  3. G.T.Faggin,Tout Oeuvre peint des VAN EYK, Flammarion, Paris, 1969
    総カタログ。資料豊富。図版の色合わせはいまいち。これはたぶん昔、集英社がリッツ・ーリ版として翻訳したことがあるような気がする。このシリーズ、翻訳は労作なのだが、「ボス」の巻で、一部、無断省略があったので、今はフランス語版をメインに使っている。
  4. ダーネンス、(訳、黒江光彦), ゲントの祭壇画, みすず書房, 1978
  5. Max J. Friedlaender, From Van Eyk to Bruegel, edited and commmented by Grossmann, Phaidon, Cornell Univ. Bokks, 1981
    ドイツ語版が1916年にでたもの。「ネーデルランド絵画史」として、美術出版社から翻訳されたこともある名著。 15,16世紀のベルギーオランダ絵画史を概観するにはとても便利だけでなく、読ませる個性的な本。
  6. 他に日本で、「ヴァンアイク全作品」という画集もでたこともあるし、美術全集の1冊にあることもあるようだ、、


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