中国の押出佛

27th of Sep. 2000

押出佛というのは銅版をハンマーなどで叩いて浮き彫り状の仏像をつくる技法で、彫金では打出し(embossed(English), repousee(Francais))というようです。凸型に銅板をあてて叩きだしたもののようです。仕上げには、鏨で外側から刻んだりしたあと、金鍍金するのが普通です。 同じ型で多数制作でき、銅も立体の鋳造佛ほど多く使わないので費用も安かったと思います。パネルにして厨子(仏壇)にいれ、個人の念持佛にしたり、寺の壁にたくさん貼り付けて装飾にしたりしたようです。玉虫厨子の内側には、多数の仏像を打ち出した金メッキ銅板が貼ってあります。 たとえば、天平寶宇6年の正倉院文書には鋳所の制作物として「塔基打出像五十躯 」があげられています。
ref. 無名氏編, 続修東大寺正倉院文書三十五, 作物雑工散役及官人上日解文, 断簡, 明治18, 東京
日本では法隆寺を中心に、飛鳥〜奈良時代の押出佛が保存されています。 この技法は後世にもときどき行われましたが、懸佛の制作ぐらいで、 それほど流行りませんでした。 中国の作品や同時代日本の鋳造佛・乾漆佛と比べても、技術的に甘く線がボーット としているので、人気がなかったのかもしれません。
源流である中国の作品は日本と比べて、極少数しか残っていないのは意外なことです。 本来、鋳造佛に比べれば、多量に制作されたはずですから、小型の鋳造佛はそこそこ 残存しているのに、押出佛はみつけるのも難しいのは不思議です。 唐時代にさかんだったので、2度にわたる廃佛でかなりなくなったのでしょうか。鋳造佛より薄くしかも製造時に裂け目ができ易いので腐食に弱かったのでしょうか、 また、鋳造佛のように宝物あつかいされず、大切に扱われなかったのかもしれません。 また、建築装飾とされたらしいことから、建築物の破壊にともなって消滅したケースが多いとも考えられます。

Berlinにあった最古の例

Berlin Plaque いまのところ、最古かもしれない例がベルリン東洋美術館にありました。 [拡大図版] 大戦末期の ベルリン爆撃を乗り越えたのかどうかは不明です。幸いモノクロ図版が残ってますので 、呈示しましょう。サイズがわからないのが残念です。たぶん高さ30cmぐらいでは ないでしょうか? 中央の本尊の衣の裾の表現は東魏(6世紀中葉)ごろの石仏・百済の石仏・ 法隆寺献納四十八体物の一 部のようなつくりです。日本でいうと飛鳥時代 の様式です。左右にいる獣は鹿のようにみえますから、鹿野園(サルナート)での釈迦の 説法を象徴していると推定すると、釈迦三尊ということになります。 多数の化生菩薩をまわりに配しているので、佛伝ではなく浄土の描写です。 三尊仏の部分は一個の型、化生菩薩は 2個ぐらいの型を繰り返し使って打ち出してい るようです。 このように、同じシーンを多数並列したものは、礼拝用というより、 壁面や佛具の装飾用であろうと思われます。
pl. source: 彩華社, 泰東巧藝百選, 1930, 東京


分散した同じ型の4点

Hosokawa MOA
両図版は、細面・細身の形から唐初期より昔のものだろうと推定されている作品です。 左側は細川家旧蔵 (h 15.4 x w 15.2cm) [拡大図版] 。かなりよく鍍金が残っています。 ・ 右はMOA美術館(熱海) [拡大図版] こちらの鍍金は少し不審ですが、本体はまともなものでしょう。 これらは、1930年 代ごろに、同じものが、まとめて多数出土したもののようで、これ以外にも2点同じ型 によるものがあります。 白鶴美術館 ・Harvard大学WinthlopCollection [拡大図版] に所蔵されてます。
細川家旧蔵のものと、Harvardのものは、パリの古美術商  C.T. Loo が横浜経由で米国にいったとき、横浜で売って、米国でG.W. Winthlopに売ったという 経緯のものです。C.T.Looは2つ一緒に出土したといっていたようですが、実際はもっ と多数、同時に発見されたのだろうと思います。なぜなら、型による制作ですから、複 数つくられるのが当たり前ですが、同じ型による作品が別々の地点ででるよりも、1箇 所でまとめて出土するほうが、確率が高いからです。
いったい、この仏さまはどの仏さまなのでしょうか? むかって左の菩薩がインドの本をもっているようです。現在でもチベットの教典などで たまにみる横長の本です。これは文殊菩薩のアトリビュートですから、文殊菩薩である 可能性があるようです。
pl. source: 矢代幸雄, 支那の鎚[金葉]像, 美術研究, 第78, 1938/7, 美術研究所, 東京

唐代 最盛期の爛熟作

Nezu Front Nezu 3to4 つぎに唐代中期の欄熟期であろうと推定されている有名な根津美術館の作品を紹介 [拡大図版] しましょう。 これは、一見すると型にいれて鋳造したものにしかみえません。丸彫りの仏像の背面に 銅板をつけたようにみえます。それほど高く盛り上がっていて、最高で5cmに及びます。あえて斜めからの写真も採用しました。 ref.[矢代]によると裏から調査したら、へこんだ部分の口が奥より狭くなっているそう です。つまり凸型によってうちだしたものではなく、かなり自由に厚い銅板 から加工したものらしい。近年の技法では、なにか柔らかいものをつめこんで 支えとしながら、叩き延ばし加工するそうです。
 体格は丸みが強く、密教的な感じもあり、少なくとも開元年間以降 のものだと思います。 一方、唐代末期、AD842に法門寺塔の地下に奉納埋蔵された宝物のなかには、金銀で 打ち出した仏像を箱の装飾にしたものが少なくありませんが、どうも 芸術的にも技術的に上記のものより低いようです。皇帝関係の奉納品でこうなのですから、この時期には高水準の押出佛はつくられなかったと推定しています。 従って、この超絶技巧の作品は八世紀、安禄山の乱以前の最もゴージャス な玄宗皇帝時代のものと考えたい。
戦前、山中商会を経て購入したものだそうです。 pl. source: 矢代幸雄, 支那の鎚[金葉]像, 美術研究, 第78, 1938/7, 美術研究所,


サンフランシスコにもある

Brundage Plaq 最後に、 唐代末〜五代ごろの、少し退廃したスタイルの押出佛を、あげましょう。 [拡大図版] もと、国際オリンピック委員会会長ブランデージ氏nコレクションの一つです。 ブランデージ氏がコレクションをサンフランシスコ市へ寄贈したので、 サンフランシスコ・アジア美術館に所蔵されています。 技術的にも、鋭い精神性という点でもやや落ちていますが、ある種の気安さ ・大衆性があります。