中国の「文人画」は、 官僚もしくは引退した官僚や地主など他に生業をもつ 知識人がアマチュアとして描く画である。 北宋の蘇軾が竹や枯木を水墨で描いたという記録は早い時期の文人画の例である。 これは、画家の境遇をいうの用語であって、画の様式をいうものではない。 しかし、いわゆる「文人画」にはもう一つの意味がある。それは、前記の 「知識人が制作するのにふさわしい様式の画」という意味である。 これを、区別するためにここでは 「文人画様式」と呼ぶことにする。これは、北宋に萌芽が あるが実際には元の末、明の初めに、ある程度はっきりしたものと なった。 この様式の画 は、必ずしもアマチュア画家だけではなく、プロ・セミプロによって制作され、 高度な達成をえた。
知識人・文官官僚階級の利害によって、この2つの概念が混同され わかりにくいものになっている。
北宋の郭忠恕が「図画見聞志」第1巻で、「人品既に高し、気韻高からざる をえず」「衆工の画と同じで画であって画でない」 と、「人格が高いから画がよくなる」「プロ画家の画は画としてはダメだ。」 と独善的な意見をいっている。 当の「図画見聞志」第2巻ー5巻で、まったくのプロ画家を多数あげて 絶賛しているので、この独善的意見は画家職人に対する知識人の偏見が いわせた、筆の走りであろう。 実際、宋時代の名画家はほとんど氏素性もしれないプロ画家である。 南宋の画家、椿は、「画継」において、画家のリスト と簡単な評を書いているが、帝王の画家、皇室の画家、官僚知識人の画家 を先にし、そのあとにプロ画家を列挙している。 これは、当時の階級社会の偏見=常識によるものであろう。
文官官僚にとって、書の修練は多かれ少なかれ必須なものであったから、 書については彼らはプロだった。 王羲之 以降、大半の名書家が文官貴族官僚であったから、 「芸術としての書」において唐の柳公権「心正しければ、書もまた正し」 というような意見がでるのである。書については芸術としての 高い地位が支配階級である文官官僚の芸術という属性によって認められていた。 画に芸術として高い評価を置きたい文官が「書」と同じような 評価方法を適用したわけだろう。 「人格が高いから画がよくなる」 「プロ画家の画は画としてはダメだ。」 は、画の本体の善し悪しではなく、画家の階級・出身・境遇によって 画に上下をつけるという、階級社会の悪弊である。 しかも、画については、文官は修練する必然性はない。 蘇軾の画も墨だけを使った竹のような、 書の延長にあるような画であったらしく、 本格的な花鳥画、山水画、人物画ではなかっただろう。
実際、顔料の準備、画絹や紙の調整 など、工業化社会以前の画家の作業はプロの 技術を要求するものである。できあいの絵の具さえないのだから。西洋で画家が聖ルカ 組合のようなギルドをつくったのも単に既得権保護だけではなく、材料の共同仕入れ 加工が問題であったからだろう。 したがって、高官の画は単純でつまらない粗略な画であり、 下賎な職人画工の画が一世に冠絶する名画になることが多いのは、当たり前になる。 書の場合は、大体が文官だからさして問題はないが、それでも明の皇帝の下手な 書などは扱いに困っただろう。 むろん例外はある。元の高官 趙子昴は書・画 ともに 時代の指導者であった。
郭忠恕の「プロ画家の画は画としてはダメだ。」という意見 はあまりに乱暴なので、その後しばらくは無視された。 文人画 は、先人を偲ぶものとして珍重され、伝世されてきたが、 プロの絵画も当然絵画として尊重されてきた。
文人画 は、明前半以前には、どのような社会的機能をもっていたのだろう。 元代末明代初の倪雲林の例をみると、官僚知識人が集まる会(詩の会など)で 交換されたり、パトロンに対するお礼として贈答されたりしたらしい。 交際交遊のメディアだった。 勿論、古い時代の文人画は売買されたり質草になったりした。
アマチュア画家が制作していた「文人画」は、それ自身の画風を生んだ。 初めは技法的な容易さからであっただろう。 蘇軾が制作した墨だけを使った竹・古木、 元の高官 趙子昴が制作した水村図(北京故宮博物院)のような、 墨だけをつかった簡潔な山水画、 それらは、元代末明代初の倪雲林・黄公望の山水画、 明中期の沈周の力強い様式、文徴明のサークルが開発した繊細な様式へ発展する。 ただ、この「文人画様式」はアマチュアが制作しなければならぬ必然性はなく 、人気が高くなれば、セミプロ・プロも制作した。
北宋末徽宗皇帝作とされる絵画は当時の一流のプロ画家・画工と同じ 様式である。皇帝がプロ画家であるはずもなく、インテリで有名な徽宗であるから、これこそまさに文人画であろう。しかし、様式は、彩かな花鳥など、プロ画家と同じである。勿論真跡かどうかはわからないが、少なくとも金時代以前にこのような 絵画が徽宗の画だと考えらていたわけである。徽宗は文人だから、 当然 墨竹や水墨画を描くべきだとは、だれも考えなかったわけである。
また、元時代の初め、知識人兼プロ画家である銭選に、後に高官になる 趙孟[兆頁]は、「文人の画とは何か?」と尋ねている。 なんと混乱したシチュエーションではなかろうか? 銭選の絵画は、南宋時代に発達した繊細な花鳥画(プロの作) と 古代様式を復興したような美術史的作品 であり、これも16世紀以降の文人画とは正反対の様式である。
したがって、元時代以前では、 制作態度としての「文人画」はあったにしても、 絵画様式としての「文人画」ここでいう「文人画様式」は 存在しなかった。
「文人画がプロ画家が描く画に勝る」という議論は明後半にまた さかんになった。これは、科挙をめざす知識階級が非常に多くなり、 教育が普及し、科挙に落第した知識人や在野の知識人で画を収入の道にする人が 多くなったためである。彼らはむしろセミプロであろう。 彼らは従来のプロ画家の画と違うことをアピールした。 彼らが描いたのが「文人画様式」の絵画であり、明中期嘉靖年間には ある程度、様式として独立していたと思う。 私の考えでは、
17世紀初めの芸術界のリーダーの一人、董其昌は 自分が高官であったことから、プロ画人を攻撃した。 「書画の特技で巨利をむさぼった」悪党であったから、商売敵を攻撃したのであろう。 これは、「文人画様式」の画を描いたセミプロ・プロ画家たちの マーケティング・自己宣伝・市場操作に他ならない。
支配階級であった文官官僚の虚栄心に媚びたせいか、 明代後半に「文人画」陣営が勝利し、肖像画仏画など一部をのぞいて、 知識人の画を看板にしないと評価されなくなった。そのため、 さまざまな妙なことが起きる。
画を売ることを「売画」といって軽蔑するという不思議な現象が起こった。 その副作用として、画家は 画を直接売るのではなく、あげたことにして、お礼をもらう。物品と交換する。 イタリアルネサンスの巨匠たちが、堂々と金銭を要求し、画料の支払不足に 対して訴訟までしていることと極端な違いがある。 高官も画をたしなみとするのが高級だということになり、画が描けない 高官はゴーストペインターを頼みサインだけする。画が描けない画家が誕生する。 どうみても下手な画が作者が高官というだけで仰々しく扱われる。 プロ画家のなかにはサインをいれなかったり、抹消されるものがでる。 プロ画家も文人をきどり下手な詩をいれたり、代作を頼んだりする。等々。
さらに美術史の曲解ねつ造がおきる。 昔の優れた画家を全部、「文人画様式」の先祖にするために、 生活まで「文人」にしたてあげた。 宋代の画家は官僚就職失敗者の李成はともかく、范寛、許道寧など、多くは プロ画家である。それなのに、「高士」とよばれて、なにか官僚予備軍の詩人のように 勘違いさせるような記述になっている。元末の呉鎮はどうみてもプロなのに 、易者をしたという経歴がクローズアップされ、プロでないような扱いに なった。
董其昌の「文人画がプロ画家が描く画に勝る」という議論は中国絵画 の発展にとっては、マイナスであったと思う。当時の 一部の画家たちと官僚にとっては有利であったため 定着したのは不幸なことだった。