(2007/6/10 update ver.2)(2002/05/5) ver.1
Conservation D'Angkor写真追加。(2002/08/15) ver.2
自宅ー新宿ー日暮里 340yen,日暮里ー成田ー1940yenであった。成田 10:30発。飛行機の中では、ゲントの祭壇画の伝世史( Source: ref. The Ghent Alterpiece p.15)と陳佩芬「青銅器弁偽」の翻訳をやる。
バンコク国際空港(ドムアン空港)ではBangkok Airwaysのトランジット窓口がわかりにくくて困った。Transit 2にあると書いてある。ところが、Transit 1 は簡単にみつかるが、Transit 2が地図にも明示されていない。しょうがないから、Transi 1の窓口のお姉さんにきくと、まっすぐ、ずーとむこう、ということだった。「シェムリアプにいくの?」と窓口のお姉さんが言ったぐらいだから、同様の客が多いのだろう。
要するにドムアン空港では、1と2というのは、ウィングの違いであり、他の表示にも一貫しているようだ。
その点をガイドブックなどにも明示して欲しいものだ。
他の人は困らないのだろうか?
Bangkok Airways は受付のコンピュータがダウンしていて、担当の日本語ができる小柄な女性が、対応に苦労していた。なるほどこういうことで、問題がおきるので、むやみに接続時間が長いのか? おもはず「マイクロソフトなんか使うからいかん」と毒ついてしまった。
飛行機の胴体にはSiemreap Airという表示Bangkok Airのはずだが共同運行なのだろう。
バンコクーシェムリアップで日本人が客の八割をしめているのに驚いた。
一部は[井戸堀り?]のピース部隊ボランティア風の人だ。暑そうな格好ではある。他は年輩のかたの団体が多い。なるほど年輩の人で身体を壊すひとがでるわけだ。これだけいきゃ。
しかも、私でも、かなりかまえて、薬などを用意してきたところなのに。。
若い人のグループは,卒業旅行のような軽さでなかなかほほえましい。
バンコクからの便で隣の年輩の日本人女性と英語で会話、外人ごっこをする。
横3列+2列の席のある狭い機内だが、新しい飛行機であり、清潔高性能である。離着陸もうまい。
小さなプロペラ機だったころ、荷物を積みきれず、バンコクにおいてしまうというような事故があったらしいのは、昔話になってしまったようだ。
シェムリアップ空港 夜到着。滑走路はコンクリートであり非常によくできたもの。1m50程度の方形に溝を切ったようなコンクリート面である。土の面なんかない。青い小さな誘導灯が滑走路に点々と散っており、空港建物(空港ビルとはとてもいえない)の近くだけが明るく、外は星明かり以外は全くの闇。探照灯のようなランプが回っている。夜の到着はまるで戦争映画のシーンみたいだ。
軍隊の空港建設を転用したもののような感じがする。
蛍がいきおいよく飛んでいる。日本での蛍のイメージと違ってスピード感がありビュッと飛ぶという感じだ。
空港建物から外にでると、むかえの人が、名前を書いた紙をひろげて、並んでいる。背後が真っ暗だから、ちょっと不思議な感じだ。一人一人にNo NOといい続けて、左端にようやく、私の名前をローマ字で書いた紙をもった人をみつけた。 むかえにきたのは小柄で色黒の女性:パールさん(22ぐらいか?) 日本語少し、英語たくさん。運転手は17ぐらいの少年/若者。九時に担当のガイドがむかえにくるそうだが、少しおそくないかと思う?
Hotel Nokor Phnom 104号室。別棟の広いダブル
日本人団体が多いところの通弊として、夜の妙なさそいがある。スーツケースを運んでくれたボーイが執拗に誘うので困ってしまった。
なんやねん。。しかし、シェムリアップにはむかしの台北のようなYMCAはなく、かなり苦しい。コンドームも金ももってきてないのに、どーしよってんだあ。。
電圧低下がときどきある。一瞬 部屋が真っ暗になったりする。
これでは、コンピュータの管理は難しいだろう。
バスのお湯は少し頼りない。ちいさなクモがいたので、溺れないよう事前に外にだす。
お湯はやや褐色を帯びている。鉄イオンが多い水なのだろう。
さて、ゆっくりするも、確かにシェムリアプの夜は長い。まだ、何も遺跡を観ていないので記録の整理をするわけにもいかないし、しょうがないので飛行機の中から継続した
陳佩芬「青銅器弁偽」の翻訳をやる。
Nokor Phnomでは夜、九官鳥のような鳥の声がときどきする。カリョウ ビンガというわけにはいかないようだ。むしろ骨太な声で、夜中に何度か目が醒めた。この声では高丘親王の轍を踏む心配はなさそうだ。
9時、ガイドのクンさん(Seng Phalkun氏)がくる。丸顔で小柄な人。日本語はほとんどできず、基本的には英語のガイドである。もともと「英語が堪能な人でもいい」といってプノンペンの旅行会社に頼んでいたので、問題はない。二〇代後半ではないだろうか? 自動車は、四輪駆動タイプのトヨタで、なかなかたのもしい。運転手は少年に近い若者である。あとでも感じたが、概して少年少女にちかい人々ががんばっているという感じがする。
予定とうり、私一人に、ガイドと運転手がつく、大名旅行である。
まずロリュオス遺跡にいくという。予定は、相当変更するつもりらしいので、こちらから、希望を出した。
「アンコールワット、バイヨン、バンテアイ=スレイ」は必須、あとは適宜アレンジしてくれといった。そのおり、「Angkor Conservation」の名がクンさんの口から出たのには驚いた。アンコールの彫像を盗難防止のためにはずして、保管しているところだ。私も今回の旅行の事前調査の過程でやっと知った施設で、原則的には非公開のところだから。即座に質問し、可能なら是非いきたいと主張した。ここは、役所だから土日休みだろうから「金曜午後にいこう」ということで、また、ころっと予定が変わる。アレンジは、ガイドを信頼してまかせる方針にした。ただでさえよくばりだから、ある程度自制しないと、総花的になってしまうだろうと思ったからだ。
クンさんのいうことでは、「アンコール」というのは誤った発音で「ノコール」「ンコール」がいいそうだ。
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昼食: ホテルにて、 タイガービール(缶)
パイナップルいりのスープがおいしい。
ミントがはいっている鳥肉いりホットサラダが良。
事前に聞いていた通り、まったくといっていいほど、「辛い」料理がない。むしろ「甘い」感じである。日本人の口にあうという人がいたのは、もっともだ。
このホテルは、どうやら華僑の経営らしい。レストランなどに「財神」が飾ってある。
そういやフロントの30代初めぐらいのサブマネージャっぽい人は細面の長身で香港であった画商のような風采だった。
それでは、中華料理なのかという感じもあるが、少なくとも私が知っている中華とは違う。「タイ料理から唐辛子とスパイスを抜いたようなもので個性がない」という意見も米国のサイトにはあったが、まあいいのではないか?むしろこういう穏和な料理のほうが洗練されると良いものになりそうだ。ただ、伝統的な魚を発酵させた調味料で、ニョクマムのような「プロホック」は臭くて外国人には難物らしい。ホテル料理には出てこなかったようだ。(帰国後、Nusara Thaitawat, The Cuisine of Cambodia, Bangkok,2000という本がノルドム=シアヌーク国王の序文つきで出版されていることを知った。200のレシピつき、50USDというやや高い本 なのでまだ買ってはいない。)
食後、ダブルベッドでねころがっていたら、タオル交換の人がはいってきた。ドアのチェーンをセットする必要があるようだ。
シャワーのあと、昼寝。
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夕食は Kreng2というディナーショーレストラン、ショーがメインで、料理はビュッフェ式でとりにいく。ドリンクリストにベルギー=ビールの[ステラ アルトワ]があり珍しく思って注文したが品切れだった。アンコールビールの瓶にする。「アプサラダンスショー」だが、半分は民謡のようなもの(ココナッツ踊、魚採りの踊り)で、中華人民共和国の人民舞踏をおもわせ、半分はインドネシア・タイなどの古典舞踊のようなものだった。ジャワのスラカルタ王宮のチームの古典舞踊をみたことがある私は、それほど感心しなかった。
料理は可もなく不可もなし。おばさんがとりわけてくれるクメールのビーフンが印象に残った。ここのテーブルは野外なのだが、雨期にはどうするのだろう。まあ観光客も少ないとは思うが。
クンさんは、私のことをボーイに頼んで帰った。ただ、朝九時は遅いので七時半待ち合わせということにしてもらった。
20:30にショーが終わったあと、ガイドに言われていたボーイに案内を頼むと、駐車場のオートバイのとこに連れていかれた、後ろに乗れという。どうも変だが、まあ噂に聞くバイクタクシーというものかといいかげんに乗ってしまった。「ノコン・プノム・ホテル」と念を押したのに、反対方向のタ・プローム ホテルへいってしまい、訂正するのに苦労する。はっきりいって街路灯もない暗い道をバイクの後ろにつかまって突っ走るのはかなり怖い。帽子が飛びそうになったので、帽子をひもがわりにして、運転手の腹に廻してつかまった形にした。
実のところ車とドライバーは私を待っていたらしく、ちょっと困っていたらしい。これはボーイ君のミスだが、奇妙な経験だった。
ホテルで、靴をみると、赤い細かい砂が覆っている。部屋には、なぜか[靴磨き]がブラシも含めてなく、ティッシュと、2本もってきたうち古いほうの歯ブラシを使って、落とす。この汚れかたは、まるで奈良で法隆寺に行ったときのようだ。奈良は真っ白になるが、アンコールでは赤っぽくなる。私は黒い皮のPostman typeのNEW BALANCEの靴だったので、埃がとてもめだった。白っぽいスニーカーならそうめだたないだろうが埃がつくのは同じことのはずだ。シュー=クリーナーを持ってきたら良かったと思った。
砂ほこりにまみれるという一時からもわかるように、ここは乾期の終わりのせいか、熱帯雨林という感じはなく、サバンナのような感じである。
別棟の入り口には虫捕り用のランプが設置されているようだ。下に多数の虫が落下して死んでいた。そのせいか部屋には虫は事実上いない。
お湯の温度が低い。なんとか入浴。
バンテアイ=スレイは、小さな寺院であり、中心部分は法隆寺東院ぐらいの広さしかない。そこに各国からの観光客が集まるので、法隆寺や宇治平等院のような混雑を呈している。バス停には観光バスが2台も泊まっている。
残念ながら、ロープでかこまれてしまい多くの部分がはいれなくなってしまっていた。しょうがないので単眼鏡(6x, 15mm, NIKON)でみる。
まわりには建築装飾の断片が多数散らばり、ごみ箱のそばにあるものでも、摩滅していないものは、すばらしい力量をみせている。クンさんが指摘するようにここの装飾彫刻は彫りが深い。10mmぐらいの深さがあり、立体的である。Conservation D'Angkorでも断片があったが、ここにころがっている断片は本物なのか模刻なのか?とさえ疑った。しかし、なかなか優れたものが多い。堂の前の守護神丸彫りのうち、足先だけ残っているものもあったが、足の彫刻も立派だ。残っていたものはプノンペンの博物館へ移されていて、東京でも展示されたことがある。
精巧な彫刻、量感豊かな彫刻など、確かにクメール彫刻の頂点なのだろう。デヴァーターが有名だが、外側の彫刻では むしろ若々しくりりしい男性像が魅力的だった。
一方、壁の一部にラテライトが生ででいるところがあり、精巧な浮き彫りと不釣り合いのように感じた、ここははめこむべきパネルがなかっただけなのだろうか?
とにかく小型の建築で、通路の高さが低く、169cmの私でも、頭に危険を感じるくらいだ、
外に出たあと、ガイドのクンさんに[ココナッツはどうか?]と誘われて、 近くの、木の調度が重々しい茶店というかカフェのようなところで、ココナッツを飲む。まず、外をむいて、一カ所穴をあけストローで飲む。うまいというより、少し変わった味。想像していた青臭さはまったくない。完熟だからだろう。そのあと2つに割って、金属のレンゲで内側の果肉を食べる。これは文句なくおいしい。がうまく食べないと外側の皮も混じってしまう。
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サマージーンズのパンツが汚れてきたので、フロントにランドリーを頼む。部屋の案内書では翌日正午までとなっていたが、できたら、翌朝早くにしてほしいといったが、夜にはできるとのこと、ありがたかった(3USD)。これで翌朝のバイヨンはジーンズでいける。 午後はサマーウール パンツに替えて、Conservation d'Ankorに行く。ここは博物館か倉庫だから、そう汚れないので、ジーンズの必要はないからだ。
昼食 ホテル タイガービール(缶)。
「魚のココナッツミルク蒸し」がおいしかった。
トウガン入りスープもよい。ご飯はインディカ米、小さな型に抜いてある。実は私は割とインディカ米が好きなので残さず食べてしまった。
シャワー と昼寝。昼はよくお湯がでる。
ちょっとあいまいな場所で2棟の倉庫の間で、庭だが、鍵がかかっていて、撮影は可能というところがあった。
そこにあったものでは、
コー=ケーのリンテル風の断片で横に神像がならんでいるのも、面白い。これはそうとう古いと思う。
バコンのすばらしいドラゴン装飾断片があった。これの上部には手の先が残っているので、もとは乳海撹伴と同じく、ナーガを神々がおさえている場面の一部だったようだ。
また、アンコーワットのデヴァータ浮き彫りとしかおもえないものもあった、
「ガルーダに乗るヴィシュヌ神」を中心とする三角形の木製パネルは興味深かった。たぶん破風だろう。ややタイ風の細長い顔である。一六世紀以降のものか?。
また、庭 倉庫とわず、バイヨンスタイルのナーガ, 狛犬/獅子は、いやというほどあって、食傷するぐらいだ。
この庭の収集だけでも十分堪能するのだが、
さらに、2棟の倉庫には無限に近い彫像がおしこめられている。一棟は2楷あって、二階は小さなものや断片、陶磁器、1階は彫像、
もう一つの棟は、1階だけみたが、碑文、とリンテル
の収集である。
「日本人ならいい。タイ人ならいれない、日本人でよかった」のだそうで、タイ人は遺跡盗賊として、よほど評判が悪いようだ。確かに盗難彫像はほとんどバンコク経由で売られている。
青い服をきた70くらいの小柄な老人(Keng Reach 翁)に先導され、鍵をあけてもらった。 入ったとたんにおもわず[ヒエー]と声をあげた。 それほどの量である、
なかでもプレー=ループのすばらしいヤクシュミー(灰色砂岩、丸彫り、頭部欠落,10世紀)はやさしい両手とロータスをもつ指の表現がすばらしい。プノンペンの同じスタイルのヤクシュミー(完形)より遥かに優れている。像高は、等身よりやや小さい。入り口近くのバテアンクディのやや倣古的なディバーター(黒っぽい砂岩、丸彫り、頭部欠落))もいい。プノンペンの有名な女神像ににている。
2階で興味深かったのは、頭部のない人像ばかりだが30cm前後の彫像も50体以上 あり、いずれもそれなりの出来であった。この種の小彫刻の標準作をみているようだ(すべて灰色砂岩、丸彫り、背面も彫刻あり。)。
あきれたのはアンコール=トムの人頭彫刻で径1m前後のもの(橋の両側にあるナーガをひく力士たちがそれらしい)はすべて模刻に変わっていて、本物はこちらに移っていることだ。大きな頭部が4列x30ぐらい、100点以上ぎっしりと並んでいるのは不気味だが、なかにはあの魅力的なやさしい微笑をした顔もあって印象的だった、後で気がついたが、百点ばかり野外に並べた頭部もあり、こちらを撮影させていただいた。ところが、これは交換用のセメント製レプリカだった。ともかく100点以上ここに集めてあることになる。これは同時にバイヨンに使用されている模刻の水準が、みやげものレベルよりかなり高いということをしめしている。
等身以上の像の胴部分だけが20点以上、床に累累と横たわっているのは、ちょっと凄惨な感じがする。
アンコールワットの一角にあった千体仏もここへ移ってきている(2階)。タイ風の木彫が多く、十七世紀以降のようで、タイ風の木彫が多く、別に盗まれそうもないのだが、、床に積みあがったような状態でどうも感心しない。
2階には本体が破壊盗難された彫像の足つきの台座だけが何十とあつめられた
コーナーがあったが、これを回収する意味があるのかどうが疑問に思った。むしろ元位置にあったほうがいいような気もする。
リンテルのコーナー(別棟)では、4列10組みぐらい、ぎっちり並べてある。 事実上、、手前のものしかみえない。とくにバンテアイ=スレイの3つの象にのるインドラ神、の優れた赤色砂岩のリンテルがあった。ひょっとしたらスレイのはコピーかとおもうようなものだ。これはみればみるほど現在バンテアイ=スレイにあるものと似ている。ただ、横幅が少し小さいように思う。
碑文は別棟にある。バンテアン スレイの門枠内側に掘られた碑文をみてでも思ったが、文字の刻が非常に浅く線彫りだけである。薬研彫りしているような碑はひとつもみあたらなかった。サンスクリット碑文が多いらしい。読めないので古クメール語なのか、サンスクリットなのか、パーリ語なのか区別はつかなかった。七世紀のものから収集されている。
碑文は15点を下らない。。破損していないものをみると、上部を宝珠のかたち、むしろヒマラヤのシバの聖山カイラースの形につくるもののようだ。
バンテアイ=クディで最近大量に発掘された仏像断片とおぼしき、白っぽいナーガ上の釈迦もあった。こういう小型のナーガの上の仏陀の場合、ナーガの胴の鱗模様はないことが多いようだ。
別棟の一角は仏像ばかりで、時代は十四世紀以降だろうが、大きな涅槃像(等身以上、上半身のみ)、仏足石(靴のサイズでいうと40cm)があった、
陶磁器もあるはずだが、みあたらなかった。
ラベルや解説標示もまったくなく、遺物に直接書いてある出土地を読むぐらいしか、資料がない。
おまけに「例外的にみせるのだから速くみろ」というスタンスで、せかされるので、充分な観察ができていない。
どうも、盗難の危険度の高い立体彫像はここかプノンペンに移っているものが多いようだ。
古い写真では、立体彫像があった遺跡でも現在ではあまりみかけないようだ。例えばバコンの古い写真では、参道に大きなビシュヌ神の石像が立っていたはずである、盗難をのぞけば、ここか、プノンペンに移されているのだろう。
おそらく、保存が良く、完形にちかいものはプノンペンへ、それ以外がここに保存されているのではないだろうか、また、緊急避難のようなものもここにあるのだろう。
将来は、博物館と保存倉庫の併設のような形にするのが望ましいのではなかろうか?
現在は、軍隊の倉庫のようなひどい倉庫に入っている状態であるし、
逆にここに盗賊団がはいる危険だってある、
博物館ができれば、将来、シェムリアプの観光スポットのひとつに、なるだろう。
博物館建設は、日本のODAの使途として、ふさわしいものではないだろうか?
そうなれば、模刻を堂々と遺跡に明示しておいてもいいだろう。
フィレンチェの有名なミケランジェロ作のダヴィデは野外にあるのは模刻で、アカデミア美術館にあるのが真作であるが、この場合、模刻も町の飾りとして良く働いている。
ガイドのクンさんこみで70米ドルというかなり高額を払ったが、まあここまできてケチる気にもなれないし、寄付という感じで納得した。
倉庫の中で、スタッフの子供なのだろうが、 5歳ぐらいの女の子に、花をいただいた。こちらが、手をあわせて、あいさつしたら、少しこわがっていたみたいだが、一応挨拶をかえしてもらった。
あとでわかったが、1963年に東京、名古屋、大阪の松坂屋で開催された「カンボジア王国秘宝展」には、ここからも出展している。
「今日は友人の結婚式にでる」と車のなかでいっていたし、Conservation d'Ankor見学アレンジに尽力してもらったので、ホテルの前でクンさんと別れるとき、少しよぶんにチップを渡す。
夕食はホテル、イカの炒めもの、ブタの揚げ物、など悪くないが、いまいち。
ミントがはいっている鳥肉いりホットサラダが良い。
瓜入りスープがよい。
アンコールビール(瓶)。
ウェイターが、バイクタクシーで夜の遊びにいかないか?と誘うが、
バイクタクシーは昨日でこりていたので、断る。もとより、いく気もなかった。
ジーンズを受け取る。例のボーイがまた女性の件で誘うが「みーんな寄付してしまったから、金ないよ」といなす。なにしろ、1万日本円近く使ってしまったのだから。
7:30 クンさんと順調に待ち合わせ。それにしても時間厳守な人だ。
バイヨン にいく、 途中にあったパコダは、内戦いで殺された人を弔ったものだそうである。ここの周壁は、アンコールワット類似の連子窓だった。このような アンコール風の建築装飾は、新しい大型建築の壁や門、破風装飾、門の両側の獅子などに、多くとりいれられているようだ。
ミネラル=ヲーターを買おうとしたが、クンさんが寄った露店にはOZONてのしかなかった。これは消毒は徹底しているのかもしれないが、そうとうまずい。ネッスルのものがないか?と、断った。他で、ネッスルのを買えた。
帽子を落としたとき、すぐ物売りの男性に拾ってもらった、不足ぎみだったこともあり、KODAKフィルムを1本買う(6USD)。
拓本を売っている露店が2つあった。サイズからいって、ちらと観る限りは模刻からの制作のようである。日本人にやたらと売り込むと聞いていたが、私にはそんなことはなかった。買いそうもないとみられたのだろう。
遺跡でも拓本制作の場面や拓本の痕のある石はあまりみえなかった。例外はアンコールワット回廊の碑文でこれは確かに痕がある。当局は、特に許可を得た作業以外は採拓を禁止しているはずなので、原石拓本は売店で売れるほどの量はないはずである。私は、第二次世界大戦以前の制作らしい大きなスーリヤバルマン2世の浮き彫りの拓本を持っているし、正規ルートの採拓を売っている商人もいることは前から知っていた。
(http://www.asiaartifacts.com/art.htm)
フランス人の観光客が多い。日本の団体もいて、駆け足させているのはかわいそうだ。
大きな構造だが、内部が僧坊のあつまりのような感じで、親しみやすい。上からみると瓦葺きの木造家屋を石で模倣したような感じがする。
階段も アンコールワットやプノンバケンのような非道なものではなく、登りやすい。
なかで尺八を吹いている日本人もいた。
浮き彫りは高さ4mに及ぶ巨大なもので、最下層は、市民の普通の生活が描かれていて:特に興味深い。中国人の闘鶏、クメール人の闘犬の場面は特に興味深い。ここは天井がなくなっていて雨曝しである。
部分的にみるとチャム軍の勝利としかみえないところがあって、奇妙に思った。クンさんに、これは「チャム軍の勝利にみえる」といったら、さすがに「とんでもない」という答が返って来た。人面塔は写真でみるとえぐいものだが、実物は風化があるせいか、それほど怪奇な感じはしない。
妖美といえるようなアプサラ浮き彫りもある。
バイヨンを含むアンコール トム王城は3km四方の森になっている。
この森を組織的に発掘すれば、多くの成果があがるだろう。
猿がたくさんいる。ここの猿は遠目には日本猿みたいな感じもあるが、近寄るとやはり違う。
バイヨンのなかで仏像に寄進、礼拝。
バイヨンの帰りに、例のごとく、子供たちの売り込みにあったが、9歳ぐらいの女の子がポストカード3セット5ドルで安いよと売り込み、さらに1つしかいらないが、2つめにも色気があるような顔をしてると、2つ3ドルになる。更に安くなった。おもはず感心して「君はすごい」といって買ってしまった。買ったあと、おみやげに竹の腕輪2個をくれた。カンボジア商人の未来は明るそうだ。
象のテラスからテラスが続いているが、テラスの下に装飾があるものなので、テラスを歩く限りはあまりインパクトはない。
旧王宮遺跡の中心、階段ピラミッド形のバミスカス(神殿)は、ラテライトが裸ででていてごつい感じである。ナーギーとラージャの伝説のある中心部まで登ってみたが、あまり強い地からの霊気はなかった。
11:45 ホテルをチェックアウト。
昼食は、まあまあだったが、食後のマンゴーが絶品だった、とても日本ではこのような美味は経験したことがない。
赤っぽい濃いスープは珍しい。辛くないものである。
ウェイターに、マンゴーを追加注文したら、「ここは高いから外で買ったほうがいい」「なんなら私が買ってきてあげる」といわれた。「チェクアウトしてるから、食べる場所がなくてだめなんだ」といってなんとなくお流れとなったが、おもしろいウェイターだった。
ドア=ボーイたち(美少年と、がんばり屋の小柄な子)にチップ。
14:30 ;
ロビーでPalm Top Computerと折り畳み式キーボードでタイプしていて熱中していた。はっと気がついたら,
クンさんが前に立っていた。Palmには、かなり興味をもったらしい。
車中でクンさんに頼んで マーケットの果物屋のおばさんにマンゴーを2つむいてもらって、車中で食べた。ミルク=マンゴーというものだそうだ。
「完熟かそうでないものか?」と聞かれたところからすると、完熟でないものを食べる場合もあるようだ。
Artisan D'Angkorという工芸学校へ案内された。 日曜なのであまりメンバーはいなかった。 どうも「製品を買うように」いわれそうで困ってしまった。 日本語のできる小柄な女性がでてきたのでますますそういう感じである。 幸い、蜂蜜(Wild Honey)や香辛料がかわいい箱にはいっているものがあったので、それにした。葉で編んだ可愛い包装をしてもらった。
ここでの学業は1年やって、あと1年は給料のでる職人として働き、そのあとは村にかえって仕事をするが、製品は学校が販売ルートを考えてやっているようだ。
彫刻では、片紙のようなものを使って石彫、木彫に写し取る、木彫は1木つくりではなく、木のブロックを複数張り合わせたものを彫る。錫の型紙だったのが面白かった。
石彫の水準はジャヤバルマン7世像などはよほど手慣れているらしく、なかなか見せるが、プノンペンのドルガー像のコピーなどは、寸づまりになっている。赤色砂岩の板へのバイヨン風の浮き彫りは拙いものだった。しかし、材料は、アンコールワットやバンテアイスライで使用しているものと同じである。赤色砂岩は少し赤みが薄いようにみえたが、灰色砂岩は同じようにみえた。
このように多数の彫工を養成しているなら、一部で偽作者ができてもしょうがあるまい。この場合、材料では区別できないだろう。もっとも、欧米、バンコクなどの古美術商が雑誌広告にだしている「古代クメール石彫?」は、ここのジャヤバルマン7世像より質が悪いものも多いようだ。
表には出荷を待って梱包された1.5mぐらいの高さの大きな木箱がある。「アメリカ行き」だそうだ。
シェムレアプの新しい建築にも、前述したように門の回りにアンコール風の彫刻を飾っていたり、装飾をとりいれた例が多く、地元でも、結構需要があるのかもしれない。
漆器は、南方特有の真っ黒な漆である。子供といってもいいメンバーも作業していた。奥には埃を避けた作業室もある。庭に漆の小さな木があったので、カンボジアでは漆を育てているのか?と聞いたら、どうもあまり育てていないようだ。
絹織物は原料、糸、織りは悪くないようだが、染色材料が「 Chemical」 だそうで、ここでいただけない。なんとか古代布の草木染めを学んでもらえないかと思った。また、良い布の場合、スカーフよりも反物で売ってほしいなと思う。
北回廊には、16世紀、 アヤ=チャン一世 によって追刻された浮き彫りが2面ある。12世紀のものと同様に、一面が3m x30mぐらいの巨大なものである。ところが、これは、一部分を除いてまったくみるに耐えない。そのせいか、ガイドも案内せず、ガラガラである。 ガルーダと火の場面ぐらいだろうか、鑑賞に耐えるのは。 最下層の小人物たちも、12世紀のものは生き生きしているのに、16世紀のものはわい小化し、生気がない。 この差は印象的だった。
マッキア女史が、その著書で議論している星宿の浮き彫りをみた。1.7mぐらいの高さにある。浮き彫りの膨大な全体量からすると、とるにたらぬ一部であって、それほど重視すべきものとは思えない。この浮き彫りは、西塔門を抜けて、西の入り口を入り、回廊にはいってすぐ右の中層にある。このあたりの浮き彫りには戦前、高崎光哲氏が出版した「アンコールワット拓本集」にみる画面が多い。「二頭戦車」とか、、拓本がとりやすいところなのだろう。
一周したら、もう16:45である。17:00待ち合わせというのは、少し早すぎた。17:40ぐらいにすべきだった。
ゆっくり、出口へいきながら、ふりかえって、再度 痛感したが、
ここは、「外観」が異常なくらいかっこいい。内部はあまりなく、ひたすら外から見せることに集中したモニュメント的な建築である。
方柱がならぶ列柱空間は、円柱が原則の西洋とはまた違った味わいがあった。
フランス人の団体と日本人の団体が、搭乗手続きの列をつくる。 フランス人の観光客はホーチミン行きに、日本人はバンコク行きにだった。これで、バンコクからの便は日本人だらけなのに、なんでフランス人がアンコールに多いのかわかった。
チェックインして、待合室にいくと、ここは結構広く椅子も多く、なんとかOK。
ビールとコーヒーのカウンタもある。おもしろいのは、出国審査のあとの場所にあるカウンタなのに、市内のホテルとビールなどの値段が同じだった。
その横の売店には、今日いったArtisan d'Angkorの製品、特にシルクなどが並べてある。
奥にかなり立派なワイン売り場があるのが異様な感じがした。
「シャトームートンロートシルト」のコマーシャルまで貼ってある。
古い写真を複製したレトロな絵葉書が面白かったので1つ購入。
2002/3/18 深夜 バンコクでトランジット インターネット(基本料金70バーツ)を使おうかと思ったが、lycos.jpでは日本語だし, ここでは日本語FEPは使えないだろうなあと思い、やめる。 ラオスの地図を買う。地図というのは、なかなか日本では高いものだから。 熱帯果物缶詰をおみやげに買う。 Transitの時間が長い人のためのDayRoomHotel Serviceのカウンターの前には結構人が多かった。 繁盛しているのだろう。
バンコクー23:30--成田7:00
「安眠クン」という空気枕を使いしっかり寝る。ふと思ったのが、なぜ飛行機のサービスにこの種の枕がないのだろう?という疑問だ。
朝のコーヒーが飲めないくらいまずいのは不思議だった。
割とサービスのいいタイ航空なのに奇妙である。あるいは、身体の不調が始まっていたのかもしれない。
2002/3/18 朝 成田についた。
2002/3/18 成田のKinkoでインターネットを使って、情報をいただいたApsara Authorityのadmin とAndy Brouwerさんに礼文をだす。
2002/3/18,帰宅途中、すれ違うビジネスマンの凶悪無慙な表情に、軽い対人恐怖症になる。どうも、カンボジア人の穏やかな顔に慣れてしまったためのようだ。
帰宅後、着替えて、体を洗い、銀座に出てならし、対人恐怖を緩和する。
しかし、これもずいぶんひどい話である。私は怪物の間で生きているのか?
どうも、日差しが「秋の光」のように感じられてならない。アンコールの強烈な光で、身体が夏を既に経験しているからだろうか?
2002/3/19 仕事。夕刻、 消化器系?発病。下痢と悪寒で一晩苦しむ。市販薬を2倍量のむも、あまり効かない。
2002/3/20 医師の診察 検査を受け投薬をうける。カンボジア旅行ではサルモネラ
菌感染の疑いがあるとのこと。食欲ゼロ。吐き気あり、午後休。
2002/3/21(春分の日) 自宅静養。ほぼ鎮静。お粥を薄いものから濃いものへとならしていく。
2002/3/24 (日曜)旅行で使用したものを消毒。捨てられるものは廃棄。衣類は漂白剤をいれて再度洗浄。下着は廃棄。
2002/3/25 ほぼ回復。 分析結果では、食中毒ではない。全ての危険な細菌について、陰性。
海外旅行での、この種の病気は、今回が始めてだ。
病気のため、しばらく、迫真レポートを書くことができなかった。資料は滞在中・飛行機のなかで、Palmで書いていたので結構あったのだが、心理的抵抗があって、ベルギー15世紀の「ゲントの祭壇画」の小文をまとめたりしていた。そのあと、体力低下のせいか腰痛までやった。
シエムレアプでは、上下水道の整備が火急の問題ではないか? 高級ホテルもある観光地なのだから、それくらい、なにがなんでもやらないとまずいだろう。ホテル/ゲストハウスが200軒もできたそうだが、それに対応する下水道整備はできていると思えない。シェムリアプ川の浄化を早急に進めないと、トレンサップ湖自体が破滅し、魚の大量死ということになるする危険だってある。そうなれば、観光資源どころではなくなる。カンボジアの食料問題にも波及する。悪臭漂う町に、どの観光客がいくだろうか?
食中毒をおそれながらいくのでは、相当勇敢なやつでも二の足を踏んでしまうだろう。いろんな旅行記を読むとかなりのの確率で[下痢]に旅行中にやられているような感じだ。私の場合、幸い旅行後になった。
バンコクや香港はビジネス客が多いから、少々汚かろうが、うるさかろうが訪問客はいるだろうが、シェムリアプは観光だけの都市だと思う。中高級ホテルの料金はヨーロッパの地方都市とあまり変わらないくらいの高額なのだから、グアムなどのリゾート地レベルの公衆衛生が、シェリムアップとトレンサップ周辺だけでも必要ではないか? 軽ーい女の子たちでもいけるような清潔さが、観光地には大事だと思う。
これは、カンボジア国民自体にとっても大きな財産になると思う。 みかけがまだ美しくきれいな今なら、まだ間に合う。
旅行前に参考にした本
参考になるサイト