後漢、文叔陽食堂題字の原石をブリュッセルの王立歴史博物館で再発見した件は、金石書学 第5号、2001年12月で発表済みであるが、未だ知らない人も多いらしく本なども訂正されていないので、再度書くことにした。画像をクリックすれば拡大イメージを表示する。
王立歴史博物館 Musee Royaux d'art et d'histoireは、ブリュッセルの地下鉄メロード駅のすぐ近く、サンカンテネール公園にある。大きな凱旋門のような石の門の左右に延びている4棟の白い建物の1つである。駅からいくと門の左奥にあたる。今は退官して、顧問になっているジャンマリー=シモネ氏に案内されて、二〇〇一年九月十三日に訪れた。
中国室の1角に、文叔陽食堂題字(紀元一四四年)の原石が裸で、鉄の枠で支えられて展示してあった。横に、シモネ氏がとった拓本が展示してあった。なかなかよく採れている。シモネ氏は香港、台湾、北京に長期滞在した人だが、彼のように湿拓の技術を会得しているベルギー人は少ないだろう。
厚みは十センチぐらい。裏にはなにも無いし、切ったあとも無い凸凹した石肌である。側面にも模様は無い。ややクリーム色の石で、典型的な山東の彫刻様式である。薬研彫りではなく、両刃で彫ったような彫りあとだった。文字の面はかなり波打っていて、拓本をとると濃淡が激しくなるのはこのせいかと思った。文字の破損はむしろ少ないようだ。 この原石は北京歴史博物館あたりにあったような気がしていたので、「不思議だ、コピーにしてはよくできていすぎる」と思ったが、日本で文献(1)を調べたら所在不明。それなら、これがその原石にまちがいない。ブリュッセル訪碑記ということになった。ヨーロッパにある唯一の漢代石刻文字かもしれない。文字の無い画象石はあちこちに所蔵されているようだが、文字のあるものは欧米では珍しい。日本にも漢代の碑の原石は少なく、断碑が台東区立書道博物館に1点と、嘉平石経の断片が京都の藤井有鄰館と台東区立書道博物館にあるぐらいだろう。シモネ氏によると、ポール=シャバンヌのころに購入したものだそうだ。許可をえて、写真をとった。
道光十三年に山東省魚台で発見して、馬星恒の家へ移し、次に端方の所蔵になったはずである。おそらく端方の没後に、古美術商:岳彬へ移った(2)。西林先生に教示されて、梁啓超の飲冰室合集から抄出した題跋(6)を読むと、「有欧人貴楽爾者輦去矣」とある。ただ、この貴楽爾というのが誰なのかわからない。端方の所蔵品の金石は没後、夫人が積極的に売ったらしく、日本、欧米の美術館に残っているものが多い。例えば、京都の藤井有鄰館やワシントンのフーリア=ギャラリーなどに多い。 ブリュッセルで、所在不明とされていた石刻の原石を見いだしたのは喜ばしい。この原石は、だれでもいつでも観ることができる常設展示である。現在まで所在が日本と中国で知られなかったのは、単に中国書道史の知識のある人が、ブリュッセル王立歴史博物館に行かなかったというだけのことらしい。このように、学会に知られていないものを博物館の中から見つけて再評価する「博物館を考古学する」という作業は、カリフォルニアのジェームス=ケーヒル教授も提唱している。西川寧先生(3)、牛丸好一先生(4)、西林昭一先生(5)が、解説されているので、この小さな石刻は、名前だけは有名かも知れない。私も十年ほど前に買った拓本を1つ愛蔵している。これは大きな紙にとってあるので、ブリュッセルの石と同じ大きさのはずである。
右肩上がりで縦長の漢代の画象石題字としては珍しい書風ではあるが、「右肩上がり縦長」書風は木簡竹簡ではそれほど珍しくない。当時の日用の書体の影響ではないだろうか? 耽美的・技巧的というわけでもなく、稚拙粗野で観るに耐えないというわけでもない。普通の漢人が書いた、親しみ深い書風である。
西林昭一先生の釈文(5)をもとにして、写真・拓本を対照しながら、釈文を試みる。
建康元年八月乙丑□十九日丁未壽
貴里文叔陽食堂。叔陽故曹史行
亭市掾・卿 しょく夫・廷掾・功曹府文学
掾。有立子三人。女寧、男弟(叔?)明、女弟
思。叔明蛋失春秋、長子道士(安?)
立成□直銭萬七。故曹史市掾
石の写真では「文叔陽」の「叔」にはサンズイがつき、ツクリは「寸」のようにみえる。「叔明」の「叔」にはサンズイがついていない。後世の例だと、親子では日本と違って名前の文字を共有しないから、この2字は別の字なのだろう。さて、この文章からすると、食堂を造ったのは、文叔明の「長子」であり、文叔陽の孫であることになる。そうすると、2人の画象は、文叔陽と文叔明だと解釈できないだろうか? 林巳奈夫「石に刻まれた世界」によると、こういう鳥は情景があの世のものであると示すシンボルのようだから、ここに描かれているのは死者達である。 また、「長子道士安?」となっているがこの「道士」を道教教団の僧侶という意味にはとれないかもしれない。当時、道教教団自体あったかどうかあやしいし、「道士」という名詞が唐以降のような意味と同じ意味だったとは考えにくいのではなかろうか? 道教史には疎いので、ご教示を賜りたい。
参考文献