ENGLISH

故宮本 十二月朋友相聞書の年代

山科玲児 Reiji Yamashina, 2009/8/17
小さな見にくいイメージはクリックすれば、大きいイメージを別ウインドウで表示する場合があります

要旨

     
  1. 唐人 十二月朋友相聞書(台北故宮)の草書部分は、喪乱帖と同種の縦簾紙であり、8世紀に制作された模写本と推定される。  
  2. 伝トルファン出土写本「月令」(台東区立書道博物館)中の「十二月朝?(翰?)□聞書」の本文は、故宮本と類似する。類似本文には敦煌本「朋友書儀」の一部分がある。  
  3.  小楷釈文は異体字から、唐時代の自運作品と推定される。草書手本に小楷釈文をつけるという形式の最古の例の一つである。
  4. 想像:虞世南の小楷の様式は、この小楷釈文に近いものであったかもしれない。  


台北の国立故宮博物院には、「唐人 十二月朋友相聞書」という古墨跡がある。小楷釈文が横についた書の手本を目的とした草書である。「月儀帖」とも呼ばれて書跡名品叢刊にも収録されているが、唐時代の書であるという証拠は何もない。
蔵書印記からは金の章宗皇帝まで遡ることはできるが、それ以前は不明である。明時代初期の解縉の跋で「唐人」とされて以来そうみなされているだけだ。
そこで、紙質・本文・異体字の三つの面から年代の推測を試みた。
*
*
 

故宮本 十二月朋友相聞書の紙質


 十二月朋友相聞書

 孔侍中帖 

 日本に伝世する王羲之の模写本 喪乱帖、孔侍中帖には、縦簾紙と呼ばれる縦線が数ミリ間隔で無数に入った紙が使われているのは、よく知られている。 2008/10/19-20に台北故宮博物院で観察したところ、唐人書といわれている十二月朋友相聞書(月儀とも呼ばれている)は、喪乱帖とよく似た縦簾紙であることがわかった。しかも色も灰黒色であり、照明の関係もあるかもしれないが、黄色味が殆どなく、日本伝世の喪乱帖、孔侍中帖に近い。写真図版ではどうしても黄色みが強くでてしまうので図版だけみていると看過しやすい。
 線にそった文字損傷も点々とみることができる。隣に展示された陸柬之[文賦]の黄色い紙とは対照的である。平生壮観などの古い著録に黄麻紙となっているのは不思議だった。あるいは別本があるのかもしれない。中国に伝世した縦簾紙とみなせるものには、他には天津芸術博物館の寒切帖がある。いずれも模写本であるという点が共通している。

 7〜9世紀の書法における空罫のある紙を縦簾紙という概念でくくることはできないようで、色々な種類があるようだ。ここで空罫といっているのは、墨や顔料で書いたのではない罫線という意味だ。空罫だからといって同一視するわけにはいかない。正倉院文書には折って罫をつけて書いたものが相当あって、当時では極普通に行われたもののようである。 その製作法は一切推測しないで、現状の形態と状態だけから、便宜上、仮に4つに分類してみる。

これを表にまとめると次のようになる。○は有る、×は無いということを示す。

タイプ 例  節筆 罫間隔 墨落ち 墨罫
T 孔侍中帖  × 8mm ×
U 光定戒牒  8mm × ×
V 書譜  約24mm × ×
W 孝経 約10mm ○紙損傷

ここではTタイプのみを考えることにする。このタイプは,現存の墨跡では模写本にのみ使われている。 このTタイプの縦簾紙の現存の遺品は次の通りである。

このように、他は全て模写本であるから、この十二月朋友相聞書も少なくとも草書部分は模写本だろう。 また、縦簾紙の使用というのは8世紀の製品である根拠の一つになるだろう。

故宮本の本文と西域写本の比較

本文の年代は上限年代のめやすになるので、本文の吟味も必要だ。また、書儀は千字文とは違い、時代遅れになると破棄される傾向があるので、原本を書いた時代の目安になる。
 本文を考えるとき、故宮本系統の模写本とされる鬱崗斎法帖本の十二月朋友相聞書を使って故宮本に欠けている正月、2月、5月の本文を補うことにし故宮+鬱崗斎本と呼ぶことにする。

書道博物館 月令の一部 
十二月朝?(翰?)□聞書 冒頭
同 月令の一部 
十二月朝?(翰?)□聞書
同 月令の一部 
十二月朝?(翰?)□聞書
同 月令の一部 
十二月朝?(翰?)□聞書
同 月令の一部 
十二月朝?(翰?)□聞書
10.11,12月
同 月令の一部 
朋友相命の断片か?
  この本文と類似する文章が東京台東区書道博物館所蔵の伝トルファン出土写本のなかにあることに気がついた。台東区立台東区立書道博物館所蔵中村不折旧蔵禹域墨書集成  では130番「月令」紙本  残紙15片 本紙300x2903mmという残片を巻子に貼り込んだ長巻である。この巻には、3種の手紙文集がはいっている。

「相文巻一本」「十二月朝?(翰?)□聞書」「題名不明の書儀」ただし、そのうちの一種「題名不明の書儀」は小断片のみだが、後述する敦煌本「朋友相命」の一部とかなり一致する。そのうちの一つ 「十二月朝?(翰?)□聞書」が故宮本系統の模写本とされる鬱崗斎法帖本と表題まで酷似する。各章の内容も九月と十二月を除けば似たところが多い。  

書道博物館本と故宮+鬱崗斎本との文章の異同は次の通りである。詳細は三本 本文対照表 参照

 台湾の王三慶教授は、故宮本とペリオとスタインにある敦煌写本の比較をされている。それによると、敦煌写本には「朋友書儀」という書名をもつ本があって、3部分に分かれている「弁秋夏春冬年月日」「十二月相弁文」「朋友相命」その第二部「十二月相弁文」は手紙とその返答で構成されている。その返答部分が故宮本+鬱崗斎法帖本とよく似ていると指摘されている。面白いことに書道博物館本と同じく九月と十二月は故宮+鬱崗斎本とは全く違っているが、書道博物館本と敦煌本は近い(三本 本文 対照表参照)。 また、十月後半部分の故宮本と書道博物館本が違うところも、書道博物館本と敦煌本が酷似している。この写本はスタインに五点とペリオに6点ある。勿論、全てが完本ではなく断片も多いのでそれを総合して復元されている。写本は、Stein 5650,6180,5472,361v, Pelliot Chinois 3375,2505, 2679,3466,3420, 4989v,羅振玉旧蔵本、上海図書館本であるが、主要なテキストはStein5660で、次にPelliotChinois3375,2505である。イメージはStein6180の一部である。

王三慶氏は、本文の地名を考証して、この文章は天寶年以降安氏の乱初年までのころに成立としている。ただしこの文章自体が古人の作品を編集増補したものであろうとも述べているから、部分的にはそれ以前に遡る可能性はある。敦煌写本自体はそのあと九世紀までの間に書写されたものであるが、この書道博物館写本の年代を天寶年間あたりにおいてもそうひどく離れていないだろう。そうすると前述した故宮本の年代推定とかなり近い年代に同じような手紙文例集が行われていたという証拠になる。むろんこの文例集自体は開元天寶より前の著作ではあるが、何百年も前とは考えられない。千字文とは違って書儀は時代が下ると実用的ではなくなるので手本としては破棄されてしまう。模写の対象となったおおもとの原本が書かれたのは、天寶前後よりかなり前でしかもそれほどは前でない時点だろうと思う。

 敦煌本は返答としてバラバラに埋め込まれて居る部分が類似しているのだから、書道博物館本のほうが故宮+鬱崗斎本に近い。また、書道博物館本のタイトルが鬱崗斎法帖本にあるタイトルと良く似ていることも見逃せない。この書風は蘭亭を俗流に習ったような書風であるから唐代前期だろうと思う。また、同時収録の詩文が梁武帝の天安寺疏圃堂詩 と會三教詩、梁簡文帝の経琵琶峡詩であることも書道博物館本の時代が唐後期以降ではないのではないかという傍証になる。これからして故宮本の文章そのものが天寶以前にあって良く行われていたことを推測しても良いだろう。 そして、敦煌本第3部の「朋友相命」の一部と思われる断片も書道博物館本には収録されている( 朋友相命 本文対照表 参照)。ここまで偶然は重ならないだろうから、これは書道博物館本の真正さを裏打ちする証拠とできると思う。

また、「十二月朝?(翰?)□聞書」の後「問知友深患書」が途中で切れてその後別の紙がのり付けされている。こののり付けは古代に行われたもののようであるが、順序が間違いであり、後の紙は、梁武帝《會三教詩》の一部、「無二・・・」から始まる。この乱丁があることからも、この「月令」が真正な写本で、おそらく裏紙を使うために貼り合わせられた残片が残ったものではないかと思う。

この3本を比較して相違度類似度を色で図示すると、つぎのようになる。
故宮本+鬱崗斎 書道博物館 敦煌本朋友書儀の返信
表題 表題 表題
1月 1月 1月
2月 2月 2月
3月 3月 3月
4月 4月 4月
5月 5月 5月
6月 6月 6月
7月 7月 7月
8月 8月 8月
9月 9月 9月
10月 10月 10月
11月 11月 11月
12月 12月 12月
 

小楷釈文と異体字

 小楷釈文の書風も特異で王文治の跋を初め賞賛する人も多い。大陸の雑誌「書法」で任政という人が「大きく拡大して習ったら頗る得るところがあった」と書いている。図版ではぼやけてしまうが、現物は更に生彩がある。 書風が類似する遺品としてはパリのBiblioteque Nationale ペリオコレクションにある天寶6年の敦煌の書儀PelliotChinois2547、虞昶が監督した敦煌本の写経末尾を挙げることができる。

王競雄氏が指摘するように異体字が多く使われていることも傍証である。異体字の他の確かな紀年作での用例から年代の推定を行うことができる。 王競雄氏が指摘する「戯」「怨」「蝉」字の他に 「辭」「希」の異体字、「帰」の別字がある。

                 以上の通り北魏後半〜隋唐時代に行われた字形である。

故に、釈文の時代もやはり唐時代前期か?と推測できる。そうすると、草書の手本に小楷釈文をつけるという形式の最古の例であるかもしれない。

 仮に開元天寶年間に、十二月相聞書の釈文の書写年代をおくとすると、草書模写の年代も同時代か少し前だろう。当時珍重された書跡だからこそ模写されたわけであり、当時の古美術であったと推定される。すると少なくとも百年以上前のお手本だっただろう。おおもとの原本が王競雄氏等が推測するように隋 智永の書法またはその模写本であった可能性はかなりあると考えられる。

 ここでとりあげた異体字・別字のなかでも、この「帰」字の別字の例は非常に少ない。宋以降の行書としてならあるが。説文解字にのっている籀文から派生したとされている字形であるわりには少ない。その稀な例が虞世南「孔子廟堂碑」「破邪論序」にみられることに注意したい。ひょっとしたら、智永 虞世南流の小楷とはこういうものであったのかも知れない。

 虞世南の小楷を想像するための確かな根拠は、子の虞昶が監督した敦煌本写経末尾(ACE672 Pelliot Chinois 2644)しかない。欧陽詢と欧陽通程度の類似はあるのではないかと思う。「十」のか細い感じなどかなり故宮本と似ているような気もする。十二月相聞書の小楷を埋め込んでみた。
孔子廟堂碑 破邪論序 虞昶監 敦煌本

また、「辭」の異体字は、墓誌の使用例が少ない割には、有名な書道の名品になぜか多いのは不思議である。
文賦 歐陽詢
行書千字文
玉板十三行

「希」の異体字は、ここで挙げた中では、他の墓誌や墨跡、写本での使用例が最も少ないものであるが、特に書道史の上で考察をすることができなかったので棚上げしておく。

結論:

 故宮本の作成年代は、八世紀ごろと推定される。模写とそのあとの釈文とも同じ時代であるが、同時・同じ人の筆とは限らない。模写された草書の原本はそれ以前であるが南北朝時代後期〜初唐だろう。

附記

参考文献


戻る/HOME RETURN